メンタルなしで世界を思考する? スピノザにおける無限知性と人間の精神について
スピノザ哲学を難解なものにしていることの一つに、スピノザには「考える私」というデカルト以来の、人間精神における「観念」の考え方がない、ということが挙げられると思う。
およそ、哲学の歴史とは、私たち人間の精神が、いかにしてこの世界の真理に達するかを問い、真理に達するためには、精神はどのように世界を認識し、精神が持つ「観念」が、思考の外にある「存在」そのものといかにして一致しうるかをめぐっての歴史であった、とひとまず言っておく。
近世の哲学において、「観念(idea)」の考え方で影響力を持ったものは間違いなくデカルトであろう。デカルトにおける観念とは、「われわれ人間の心・精神・意識の内において現れるさまざまなもの・内容」のことであり、デカルトはこの「観念」を認識するものとして、「考える私」いわゆる「コギト」の存在を定立させた。「われ思うゆえにわれあり」は哲学史的にもあまりにも有名なテーゼである。(参照:『観念説と観念論 イデアの近代哲学史』ナカニシヤ出版)
ところがスピノザは、これとはまったく別のアプローチをとる。結論を先取りしてしまえば、スピノザにおいて考える精神とは、私という主体ではなく、神=自然そのものが思考することなである。
神が思考するとは一体どういうことか?
先に進む前に、スピノザが考える神について説明をしておく必要がある。スピノザの神の定義をみてみる。
デカルトにおいては、神を「実体」とみなす他にも、身体と精神をそれぞれ有限実体とみなしていたが、スピノザにおいては有限なる実体はなく、実体は唯一つであり、かつ無限の存在であるとされる。
この神という言葉は、この時代の文脈においてそう呼んでいたのだと考えられ、スピノザにおいては、自然、あるいは現実そのものとイコールといってよい。
この実体=神は、あらゆる「属性」において構成され、属性とは、実体=神の本質を表現するものであり、知性がこの本質を認識するものとされる。スピノザによれば、人間が接近できる属性は、「延長」と「思惟」のただ二点のみである。現代的な言い方をすれば、物体と思考と置き換えてもよいであろう。
そしてわれわれは、この延長と思惟という属性において、実体を表現する個物的な存在である。有限なる個物的存在は、実体の変様であり「様態」といわれる。様態は、常に生成変化し、運動と静止、創出と消滅を無限に繰り返す、われわれを取り巻くこの世界そのものの姿といってよいだろう。
スピノザは、このような実体=様態のあり方についての具体的イメージを知人に問われた際に、延長属性においては、「全宇宙の相」の意であるとし、思惟属性においては「無限知性」という表現をしている(書簡六十四)。
われわれ人間は、この「全宇宙の相」のもとに、それと連動する「無限知性」の只中において、身体的に生き、そして思考している個物的な存在である。
スピノザにおいては、身体と精神は異なる別次元の実体ではない(一元論)。スピノザにおいては、延長としてある身体も、思惟としてある精神も最初から連動している。
同一のものが、異なる属性において、異なる現われ方をしている。これが「心身並行論」と呼ばれるものである。
神=自然が思考するからといって、神が人間のようにぶつぶつ言葉で何かを呟いたり、理論立てたことを頭の中で記述しているなどのイメージをしてはならない。
人間の精神は確かに、言語を使ったそのような思考をするが、それはあくまで人間の「知覚」の領域のものにすぎず、人間の知覚には混乱や迷い、憶測など、受動的な感情などもあるため、必ずしも十全なものではない。(哲学者の江川隆男氏は、人間の言語による思考はスピノザにおいては第一種の認識=表象知にあたると指摘する)。
神が思惟(思考)するという時の思考とは、そのような「人間が言葉で思考する」というイメージは切り離さなければならない。
とはいえ、なかなかイメージがつきにくい。スピノザ研究者である、上野修氏の説明に頼ろう。たとえば、自然が思考するという時の「知」の現われ方を、上野氏はこのように説明する。
自然が思考するとは、この因果関係という「知」(事象)そのものである。われわれ人間はこの知を、言葉で説明しようとする。それがわれわれにとっての学問となるわけだが、われわれに認識されようとされまいと、人間の言葉で概念や理屈を説明されようとされまいと、台風という現象を生み出す背後にある知=因果関係、自然の法則は間違いなく存在する。現代であれば知というよりも情報といった方がよいかもしれない。
それは人間の認識では及ばない知、言葉で説明し尽くせない知であったとしても、自然においては「説明尽くされている」知である。人間は自分たちの言葉で説明できない知を、未知と呼ぶであろう。しかしそれはあくまで、人間が十全な観念のもとにないだけのことである。
神=自然における十全な観念。真理としかいいようがない説明尽くされた知。これが自然の思考=観念ということではないだろうか。
しかし、自然においては、台風を起こす神の活動する現実的な能力(事象の連鎖)と、思惟する能力(理由の連鎖)は、ほぼ同じことをさしているといってもよい。それが、「観念の秩序と連結は、ものの秩序と連結と同じである」というテーゼである。
ただ端的に、知の因果関係がある。認識がある。という感じだろか。誰が認識しているのか? 神=自然そのものが、存在させ、観念(認識)を生み出しているのである。
そして、この無限に連鎖する様態の活動と思考の只中に、われわれ人間という存在もあり、人間の精神もまた、その神の思考のプロセスを、局所的、諸相的に「表現」しているのである。
とはいっても、人間の精神についての説明も必要であろう。人間の精神について、スピノザはこのように説明する。
精神は身体の観念。なんのこっちゃとなる。ここもスピノザ哲学における、躓きポイントの一つである。
この説明においては、有限なる存在である「個物」の定義をみておこう。
先に例をあげた台風もまた、大気中のさまざまな粒子が局所において協働し、「すべて同時にある一つの結果の原因であるかのように」ふるまい始める時、それは「台風」という個物と呼んでもよいだろうということである。
それと同じように、結果としてのわれわれの「身体」がある。無限の細胞やたんぱく質などの物質の諸活動が原因としてあり、それらが身体各々の臓器や骨や筋肉を作り、さらにそれらがあたかも一つの身体として機能する姿、それが人間の身体であるが、この身体もまた、自然における因果関係の知の現われの一つであるということだ。
したがって、先ほど神=自然の活動と思惟の説明をしたように、人間身体の活動と思惟もある。神=自然において、ものの秩序と観念の秩序は、同時であった。人間身体が「もの」にあたるわけだが、「観念」にあたるものは何か?というとき、それが精神に他ならない、とスピノザは言うわけである。
そして人間の精神が身体の観念であるということは、われわれの身体的な活動そのものが、観念(知)=認識そのものと連動してあるということだ。
ただし、われわれはその知、認識のごくごく一部だけしか把握できておらず、その一部の把握において、それ自体を「自己」や「意識」と呼んでいるにすぎない。
先にも述べたように、人間は必ずしも自分の身体について、十全な観念をもっているわけではないからだ。
われわれは自分の身体や精神について、ほとんど理解していない、ということについてはリアリティがあるだろう。自分の身体がどのような能力を持ち、なにが自分を行動させているのかなど、ほとんど不確かである。不確かだが、二足歩行するのだし、不確かだが食事を摂り、睡眠をとるのである。
そして精神自体にもまた、フロイトが示したような無意識の領域がある。にもかかわらず、われわれは目の前に現れた意識という「結果」だけを認識し、これを「主観」とか「自己」とかと呼んでいるのである。
実際にスピノザは、身体は精神の観念であるものの、人間の認識は身体を十分に把握することはできないのであるとする。
スピノザによれば、身体と精神は、同一で連動しているのではなかったか?
一見矛盾しているように思えるが、人間の身体に生じる変様は、さまざまな外部の物体の観念も含まれているので、人間がそれを十分に把握することはできないのである。
それゆえ、スピノザは身体の変状の観念を「前提のない結論のようなもの(第二部定理二十八証明)」と言っている。
例えば、われわれはなかなか眠れないという状況が起こる時、なぜ眠れないのか、神(身体)の観念としての精神は、その原因を十全にわかっていたとしても、人間が捉えている上記のようなごときの精神では、十全に理解できないのである。
それくらい身体や精神に起こる事象の原因は、台風の現象同様に複雑である、ということだ。しかし、その複雑な因果関係は、神=自然においては、説明し尽されている。なぜなら結果はあるのだから。
だから、ここで注意したいのは、「身体の観念である精神」とは、われわれの精神ではあるのだが、神=自然という無限知性の中においてあらわれる観念=精神と、人間がそれを局所的に知覚するもの(むしろこっちをわれわれを精神と呼んでいる)は区別しなければいけないということだ。
しかし、知らずにして、われわれは無限知性の中で観念(認識)はしているのである。
「この帰結として、人間は精神と身体から成りたち、また人間身体は、われわれはそれを感知するとおりに存在することになる(第二部定理十三・系)」。
ここでの「感知する=sentire」とは、「認識」という意味でも捉えなければならない(工藤喜作)。
しかし、人間は上述したように局所的な知覚しかしないにも関わらず、台風の現象や、人間の身体、量子の世界、あるいは宇宙の法則についてまで、理性的な知を広げられるのはどうしてだろうか。
それもまた、自然における普遍の法則=<共通概念>を把握する能力を、人間は備えているからである。自然の中から生まれてきた存在であるから、その自然に共通な概念=理性知を持つことは、人間のようなさまざまなものを知覚できる複雑かつ高度な身体を持っていれば、他の生命よりは、より大きく認識することができる。
人間には混乱した知(表象知)と、共通概念を把握する知(理性知)と、神の観念を直観で把握する知(直観知)があるが、この身体と人間の精神が認識レベルにおいて一致をみせることが、観念の十全な認識と呼ばれるが、この十全な認識は理性知と直観知のみである。
だが、われわれ人間においても、その知に至ることは至難の業である。だから、理性知を代表する学問のごときは、一生涯かけて行うようなものとなる。それでも、世界(神)の真理は人類の頭脳が総出となっても汲みつくせない・・・。
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精神の思惟。それは、十全な認識であろうと非十全な認識であろうと、神=自然の延長属性においてある身体の活動と、その観念、認識そのものである。われわれは、そうと知らずとも、この神の無限知性の只中で活動し、思考しているのである。
これらのスピノザの考え方が、デカルトやそのほかの哲学者たちが考えていたこととはいかに異質なものであるか、ということはおわかりいただけるものと思う。
私が認識し、世界や他者が立ち現れるのではない。神=自然(世界)の中に、人間と、人間のその認識が生じるのである。だから、スピノザの『エチカ』は神の定義からはじまり、そこから演繹して人間の身体と精神が出てきて、感情が出てきて、最後に神=自然との一致による「最高の幸福」で終わるのである。
<参考文献>
・『エティカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)
・『スピノザの世界 神あるいは自然』上野修(講談社現代新書)
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