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『スピノザ考:人間ならざる思考へ(上野修著)』スピノザ関連書籍の紹介#4


スピノザとともに、人間が消える。
モノとその真理だけが残る。
われわれを魅惑するとともに恐怖へと陥れるスピノザの思想。
その核心に迫るとともに、哲学者たちとの交差を描き出す。
全集の編者を務めるスピノザ研究の泰斗による集大成。

本書帯文より

 

スピノザにおける「リアルタイムの永遠」について


 スピノザ研究の泰斗、上野修先生のこれまでの研究・論考の軌跡がわかる、われわれが待望していた、かつ渾身の1冊である。内容がとにかく濃い。そして、ヘビーである。読む者は覚悟をしなければならない。

 しかし、それは難解で重厚という意味合いではない。上野先生の論調は、読者へのわかり易さというのを常に意識されているので、読み易くはあるのだが、スピノザが考えていたこと、スピノザ思想に秘められているもの、それを上野先生が鮮やかに解明していくので、その凄さがわかった時に、ガツンと来るのである。「なんだこのすさまじさは!」という意味で、ヘビーなのである。超ド級のスピノザ論であるといってよいと思う。

 濃厚な食事とほどよい酒。そのあとに味わう煙草の美味さといったらないのだが、それに似たようなヘビーさといったらよいだろうか(笑) 
 
 とにかく味わい深いのである。

 まず、序章で『風の谷のナウシカ』とスピノザが語られる! このあたりはとてもライトで、モーニングコーヒーを飲みながら読みたくなるような、洒落た展開である。

『風の谷のナウシカ』(劇場版ではなくコミックスの方)が、スピノザの『エチカ』とともに語られる。『エチカ』は難解なのだが、強度を失わない熱いものを、確実に読む者に残す。『風の谷のナウシカ』にも同じ匂いを感じた、という文からはじまり、「ナウシカの背後から、彼女の肩にそっと手をおくスピノザが見える。彼らとともに、正しく「生き亡ぶ」ことを考えること」という文章で終わる。

 スピノザとナウシカ! これがまず、斬新である。だが、これはあくまでイントロダクション的なもの。

 本書は、二部構成になっている。

 第Ⅰ部は「スピノザ哲学の核心へ」と名付けられ、『エチカ』『知性改善論』『神学政治論』『政治論』における、スピノザにおける哲学思想、政治思想の核心に迫るテクストの読解、同時代哲学者(デカルト、ライプニッツ、ホッブズ)との比較、解明に焦点があてられる。それにより、スピノザ思想がいかに異彩を放つものであるか、その異質性を際立たせようというものである。

 第Ⅱ部は「哲学史を通過するスピノザ」ということで、スピノザ思想の受容史研究にあてられていて、十八世紀のドイツ、十九世紀のフランスにおいていかにスピノザ思想が受容され、その周辺の哲学者たち、社会主義者に影響を与えていたのか、さらにはライプニッツとの関係、シモーヌ・ヴェイユ、アンリ、ラカン、ネグリといったフランス現代思想とスピノザの関係についてが論じられている。

 どの論考から読んでも、スピノザ思想の神髄に触れられるのは間違いないのだが、ここですべては言及できないので、私はある一つのキー概念について触れてみたいと思う。それは、上野先生独自の言い回しだと思われるが「リアルタイムの永遠」という概念である。

 本書においては、第四章「永遠の相のもとに」において、その概念および考え方についてが言及される。それと相関するようにして書かれている、第三章の「現実性と必然性」も、把握しておく必要があるだろう。
 スピノザにおける「永遠」は、「必然」、「現実」という考え方とは不可分、不可避なものであるからだ。むしろ、それらは等号で結ばれているとさえ言える。

 スピノザ思想を難解にしている概念の一つに、この「永遠」の概念がある。スピノザが「永遠」という時、どうも通常われわれが思い描く永遠とは違うことを示しているのではないかと思われるからである。

「永遠」の定義を、辞書、大辞泉で調べるとこうなる。 

1 いつまでも果てしなく続くこと。時間を超えて存在すること。また、そのさま。使用例「永遠に残る名曲」「永遠のスター」「永遠に語り伝える」

2 哲学で、それ自身時間の内にありながら、無限に持続すると考えられるもの。また、数学的真理のように、時間の内に知られても時間とかかわりなく妥当すると考えられるもの。

『デジタル大辞泉』より

 日本国語辞典においてもこうある。

① 過去から未来に向かって果てしなく続くこと。ある状態が時間的に際限なく持続するさま。永久。とこしえ。永劫(えいごう)。

② 時間を超越して存在すること。時間に左右されない存在。

『精選版 日本国語大辞典』より

 
 では、スピノザにおける「永遠」は、どうだろう。もちろん本書でも引用されているが、『エチカ』にはこうある。

「永遠性」によって私は、永遠な事物の定義のみから現実存在が必然的に出てくると考えられる限りで、その現実存在そのもののことと解しておく。(『エチカ』第一部定義八)

『エチカ』 (スピノザ全集 第Ⅲ巻)より

 本書にもあるように、スピノザはここでは、永遠とは存在そのものである、「現実存在」の意である、と言っている。

 これまでは、普通、ここで言っている存在とは、神の存在だ、神=永遠である、と解釈されてきた。

 だが、上野先生は指摘する。よく見ると定義は、「必然的に出てくる現実存在そのもの」とだけ言っていて、「神」の存在などと一言も言っていないのだと。

 ならば、この現実において、存在するあらゆるもの、例えば、わたし、あなた、有象無象の人間、犬、猫、石ころ、植物、昆虫、これらの存在のすべてが、永遠なのである、とでもスピノザは言いたいのだろうか。

 Yes、とスピノザは答える。

 同じような質問をした同時代の者がいたようで、ある書簡でスピノザはこう答えたのだという。

あなたは、物もしくは物の状態もまた永遠真理かどうかとお尋ねです。私はもとよりそのとおりと答えます。

『スピノザ往復書簡集』書簡十より

 スピノザはあらゆる事物、そしてその事物の状態こそがまた、永遠真理なのだと確かに言っている。
 
 上野先生はこう説明する。

こういうことだろうか。つまりスピノザはすべての事物の存在が決定論的な必然的に従って生じると考え、あらかじめ決定されているそのあり方を「永遠真理」と言っている。全知の神から見れば・・・・・・事物の存在そのものが永遠真理だというのもわからないではない。神の知性にすべてが一挙に与えられている全時間としての永遠。「永遠の相のもとに」とはそういう無時間的なことではないか。――こんな解釈を仮に<決定論の無時間永遠説>とでも名付けておこう。

本書より

 しかし、上野先生はこう説明しておきながら、この種の解釈はさしてスピノザ的ではないともいう。

「ラプラスの悪魔」という考え方がそれである。

「ラプラスの悪魔」とは、もし全ての物体や粒子の情報が完全にわかれば、未来の全てを予測することができる、「全知の知性」という超越的存在を仮定した考え方である。

 ラプラスの持つ世界観は、あらゆる事象が原因と結果の因果律で結ばれるなら、現時点の出来事(原因)に基づいて未来(結果)もまた確定的に決定されるという「因果的決定論」とでも言うべきものであることから、スピノザの必然主義に、一見、類似しているように見える。

 だが、結論から言ってしまうと、そうではない、というのが本書に示されていることである。詳細は、本書こそをぜひ読んで頂きたいのだが、スピノザにおける「必然の神」とは、「ラプラスの悪魔」のようなものと考えてしまうと混乱を起こすだろう。

「ラプラスの悪魔」は、過去も未来もすべてを知っている超越的存在であり、この全知全能の存在は、スピノザというよりはむしろ、神は可能性として起こりえる世界をいくつも持っているが、その中でも最善のものを選ぶという、「予定調和」のライプニッツと類似する。
 
 だが、スピノザの神は未来も過去も知らない。むしろ、未来も過去も知ることなど、神でさえ不可能なのだという。

 ここで、本書にはなかった観点を付け加えておくと、スピノザは決定論といっても、すべての世界の運命が、あらかじめ決まっているという「宿命論」ではない。「ラプラスの悪魔」では、誰が何をどう行おうにも、既にその先に起きる出来事は決まってしまっている、という「宿命論」を逃れられないが、スピノザの決定論は、あらゆるものは関係性の只中にあり、その関係性において瞬間、瞬間に出来事が、そのつど産出されるということであり、その産出(結果)には何らかの原因があるという意味において必然である、ということである。

 そのたった今産出されるもの、それが現実ということである。だから、スピノザの神は、すべての人間の「運命」をあらかじめ決定しない。握ってなどいない。運命を「変える」ことは、別に、誰においてもできる。変えた結果、変わる結果には何らかの理由がある。スピノザの必然主義とは、これである。「すべてが決まっている」のではない。「決まったことがすべて」なだけである。

 スピノザは決定論としばし言われるが、それよりも、もっと強い必然主義である、と上野先生は指摘する。決定論としてしまうと、ラプラスと変わらなくなってしまうからであろう。

 上野先生は、こう説明する。

スピノザの神には記憶も予見もない。目的(終わり)も原理(始まり)もなく、何かの中から選んで計画するということもない。 あるのは本質と存在と力能が一つになった神の絶対的な産出の「いま」、リアルタイムの永遠とでも呼ぶべき「いま」だけだ。 この神はカエサノレがルピコンを渡るまでそのことを知らない。 私が現に座ってこれを書くまで私が何を書くか知らない。スピノザにとって、神が現実に事物の必然を知るのと事物が必然的にそうなるのとは厳密に同時並行なのである。そのようにして現実は一つに決まってきたし、これからもたえず決まり続ける。 したがって、決定は現在にしかない。われわれが思い浮かべる決定ずみの運命なるものは、 われわれの想像の外にはどこにも存在しないのである。

『哲学の探求』第36号「ライプニッツとスピノザ 一一現実性をめぐってーー」(上野修)より

 
 スピノザにおいては、「過去」「現在」「未来」という時間軸をベースにした考え方などないといってよい。これらは、人間の表象でしかなく、「持続」としての時間、概念である。
 たった今存在する、たった今産出される、<今ここ>のみが現実であり、それが、スピノザにおける「永遠の相」という時間軸なのである。

 そして、スピノザは、その<今ここ>こそが、上野先生の言葉で言えば「リアルタイムの永遠」なのであり、産出される(されうる、された、されない)あらゆる事物の無限なる諸関係=現実=永遠=必然、とまで等号で結ばれるのだ。

 私の拙い説明ではここまでだが、本書においては、鮮やかに、巧みに、そして刺激的なまでに、上野先生が解明してくれるであろう。

 

 さらに付け加えれば、スピノザにおけるこの「リアルタイムの永遠」という考え方は、われわれをこんなところにまで連れて行ってくれる。

人間精神は身体とともに絶対的に破壊されることはできず、その何かがとどまり、この何かは永遠なるものである
(エチカ第五部定理二十三)

『エチカ』 (スピノザ全集 第Ⅲ巻)より

 スピノザの『エチカ』の中でももっとも難解なものとされる、第五部の精神に関する解釈であるが、精神は、身体の観念であり、身体があってこそ存在するものなのだが、人間精神は、身体とともに破壊されることはなく、何かが「永遠」に残るのだという。

 精神が永遠に残るとはどういうことだろうか。スピノザは、宗教的、神学的な議論に戻ってしまっているのだろうか。

 これは、人間の霊魂とか、そういった話ではなく、ここからは私の勝手な解釈だが・・

 一つ目の解釈は、存在とは「生きるという一回性そのもの」であるということ。

 この世界(=神)自体が、生成という運動、生まれてくる事物の諸関係そのものであり、永遠なのだから、その一諸相としてある<われわれ>は、その永遠性を「ずっと生きている」ともいえる。

 なくなるのは、身体という有限な物質的なもののみであり、その諸相としての生きた<事実>は、永遠に刻まれることになるであろう。

 もう一つの解釈は、一度たりとも、自分というその身体が存在した以上、その存在は、他者との「関係性」においてあるということだ。

 身体を失おうとも、つまり死者であろうとも、死者はたえず、今を生きている者たちの関係性の中で「生きている」。祖父や祖母の記憶は、私の中にずっと在り続けている。それと同じように誰においても、身近だった人間の死は、その人間の記憶の中や関係性の中に在り続けるし、共同体においても語り継がれるということもある。

 フォークナーが言うように、過去は過ぎ去ってもいない、であるとか、死者はずっと生きている、というのはそういうことなのだろうし、一度、生きたという事実、記憶、記録、なんと呼ぼうが、そのリアルは、消えることはないのだし、消すこともできない。誰に認識されようがされまいが、「事実」だけは、消えない。

 その意味で、われわれは、死者だろうと今を生きる者だろうと、これから生まれてくる者だろうと、あるいは生まれてこれなかった者も含め、すべて、「リアルタイムの永遠」という関係の産物=世界(神)ということなのではないのだろうか。

 本書および、スピノザ思想は、そのような考えにまで、われわれを誘ってくれることであろう。


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