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現代がようやくスピノザ思想に追いついてきた『スピノザ 読む人の肖像(國分功一郎著)』書評

ここ最近におけるスピノザ関連の研究本や新書など、その刊行のスピードとボリュームには目を見張るものがある。

上野修を始め、数々のスピノザ研究者の著作から、哲学者・國分功一郎の本著作に至るまで。スピノザフォロワーとしては相当の書籍を購入してきた。

そして待望のスピノザ全集の新日本語訳版が、上野修、鈴木泉の編集・監修のもと刊行が開始されている。この事象を、日本におけるスピノザルネッサンスと呼ばずしてなんと名付けるべきか。

まだ私が学生だった20数年前の1999年とか2000年あたり。思想オタクや文学オタクは、皆、柄谷行人を読んでいたが、私も柄谷の著作を通じてスピノザという哲学者の存在を知った。柄谷がカントやマルクスを援用する以前は、特に『探究2』において顕著であったが、柄谷思想の軸に、スピノザがあったのは間違いない。

当時はドゥルーズやデリダのようなフランス現代思想が読まれる時代でもあったのだが、アルチュセールやネグリなどを始め、スピノザはどちらかというとマルクスの延長において、いわばマルクス的にスピノザが読まれるという傾向にあり、左翼知識人に好まれて援用されていた。それに対し、柄谷行人はスピノザ的にマルクスを読まねばならないと唱えていたと思う。

ただ、その頃におけるスピノザの位置づけは微妙で、尖りまくった先端の批評言論においては、変革者・異端者としてのシンボル的存在として神格化されてはいたものの、アカデミズムの世界においてはほとんど無視されているような状況ではなかったかと思われる。

倫理学においてはプラトンやアリストテレスのギリシャ哲学が基本であったし、政治学や法学の授業においても、ホッブス・ロック・ルソーという流れが定番であった。社会学においてはウェーバーという感じである。ところが今や、さまざまなスピノザ研究者のアウトプットの成果や、カールシュミットやレオシュトラウスの言及などにより、憲法学者の中でも、ホッブズ・スピノザ・ロック・ルソーという流れが定まってきているように思えるし、倫理学や哲学史においても、十七世紀の大陸合理論といえばデカルト・スピノザ・ライプニッツという括られ方がようやく一般化してきた。(その括り方に異議はあるのだが・・)。

ともかく、スピノザ思想が持っている可能性は、哲学や倫理学、政治学に留まらない。最近においては心理学や脳科学、免疫学などにおいても言及されており、『Newton』のような科学雑誌がついにスピノザをフォーカスした新書を出すくらいである。

時代は大きく変わっている。

現代が、ようやくスピノザ思想に追いついてきたという事態が今、起こっている。世界的にもそうだと思われるが、こと日本においては、数々のスピノザ研究者はもちろんのこと、國分功一郎が一般層にもわかりやすく、日常におけるわれわれの悩みや社会問題に適用する形で、スピノザ哲学を広めてきたということは、間違いないであろう。

本作もさまざまな読者が、スピノザ思想の奥深さであるとか、いかにスピノザの思想が、これまでの西洋の知が辿ってきたその他の思想や学派とは異質なものであったか、その片鱗に触れることができる指南書となっている。


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