ハイデガーが読みたい!『ハイデガー~世界内存在を生きる~(高井ゆと里著)』

私の哲学の読書はスピノザから始まった。そこから、哲学史をなぞるようにしてさまざまな哲学者の代表的な著作を読んではきたのだが、ハイデガーにはなかなか踏み込めないでいた。ハイデガーといえば、その主著は『存在と時間』であるが、この『存在と時間』は内容がとても分厚く、ただでさえドイツ哲学は難しいという印象があるので、自分にとってはハードルが高かったのだ。

思えば、カントを読むのも容易ではなかった。『純粋理性批判』から読んでみたのだが、これがまた頭にぜんぜん入ってこない。すぐに挫折してしまい、だがどうしてもカントは読まなければならないと思い、本意ではなかったが「カント入門」的な本を読むことから始めた。入門書で得た知識をもとに改めて『純粋理性批判』を読み始めると、これが、読み通せるというところまできたのであった。私には変な思い込みがあって、哲学者の本を読むために入門書を読むのはチート的な行為な気がしていやだったのだが、どんな世界でも「基礎」「事前準備」というものは大事なのだということを痛感した。

さて、ハイデガーである。ハイデガーは國分功一郎の著作である『中動態の世界 - 意志と責任の考古学』や『原子力時代における哲学』でもメイン級に出てくるので、なんとなくは触れていただのが、未だ間接的にしか知り得ていない哲学者である。
むろん、哲学を読書するうえで、ハイデガーは避けて通れない哲学者である。いよいよ、ハイデガーに行きたいという思いを強くしている中、やはり、今回も入門的なものから行くべきだと考えた。

ハイデガーはスピノザに対しては沈黙をしていたということでも有名である。ジャック・デリダは「ハイデッガーにおけるスピノザの排除(forclusion)」という表現をしている(『主体の後に誰が来るのか?1996年・現代企画室』)。
哲学史に相当通じているはずのハイデガーが、なぜスピノザだけはないがしろにするのか? これはこれで一つの研究テーマになりそうなくらいなのだが、そんなハイデガーをまずは読んでみたい、というのがある。

そこで、私がハイデガー入門書として手にしてみたのが、若きハイデガー研究者、高井ゆと里による『ハイデガー~世界内存在を生きる~(2022年・講談社選書メチエ)』である。

結論から言うと、この本書はめっぽう面白く、そしてわかりやすい。これだけわかりやすければ、ぜひハイデガーのテクストを読みたいと思えるのだが、こんなにわかりやすくてよいのだろうかと不安になるくらいである。(Amazonのレビューでも同じようなコメントがあった)

ただ、著者は序章において、プロのハイデガー研究者からは批判があることは覚悟のうえ、ということの趣旨を述べていたので、著者ならではの解釈も多分にあるのだろうということは予測される。私はハイデガー研究というものがどういうものかはもちろん知らないし、そこを踏まえているかどうかはどうでもよい。例えば、柄谷行人にも向けられる、「このカントの解釈は間違っている」という類の哲学研究者の批判がよくあるのだが、「正しいカント」「正しいマルクス」「正しいハイデガー」という読みなどあるわけがない、と私は思っている。ある哲学者のテクストから、さまざまな受け止め方があってよいと思うし、それが自分の生活なり思索なりに、それぞれの影響があってよいと思うのだ。ただ、研究者からすれば、これまで研究者が築き上げてきた成果は踏まえてほしい、という思いがあるのもわからなくもない。あからさまな曲解が、まかり通ってしまうのも許し難い事態であろう。
ただ、そういうさまざまな解釈のありようこそが、その哲学者の「可能性の中心」ともいえるのではないだろうか。

さて、本書であるが、本書はハイデガーの主著である『存在と時間』をめぐって、私たちが「私」を生きるとはどういうことか、世界内存在を生きるとは何か、を問うている。

構成は以下のようになっている。

第一章 『存在と時間』という書物
第二章 世界の内にあること
第三章 空間の内にあること
第四章 他者と共にあること
第五章 ひとりの私であること
第六章 本来的な在りかた
第七章 自己であること
終章 世界内存在を生きる

著者が宣言しているように、本書はどの章から読み始めてもよいし、その章だけでも一つの理解が完結できるような内容になっている。いずれも興味深いテーマで、とりわけ現代を生きるわれわれにさまざまな示唆を与えてくれるものになっている。

ハイデガーの主要概念もいずれも興味深いもので、例えば「近さ」や「手許にあるもの」という考え方は、スピノザの太陽の見かけ上の大きさと実際の大きさの例にあるような考え方を想起させるし、スピノザにおける表象知やフッサールの現象学に近いところにあるのではないだろうか。
「世界内存在」というテーゼはすでにいくつも指摘があるように、ユクスキュルの環世界を思わせる。私たちは<ひと>として<人間>として、すでに意味や概念に覆いつくされた「社会」を生きている。<労働者>として、<学生>として、<よき夫>として、<日本国民>として、といった社会的な関係性の世界の中を生きている。それらの世界で存在するということは、物語とも歴史ともゲームとも呼ばれうるよな非本来的な在り方である。だが、われわれは、それら、他者が「こうあるうべきだ」と暗黙に要求する世界への「没入」無しには、生きていくことはできない。そのような没入していく世界の中で、人はいかに自己たろうとするのか。

本書を読むことによってハイデガーへの関心ががぜん強まったのは確かである。




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