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スピノザ『エチカ』は何が衝撃的であったか

スピノザ『エチカ』を初めて読んだのが、畠中尚志訳(岩波書店)であった。19の時である。

スピノザの存在を知ったのは、柄谷行人『探求2』を通じてであったが、そこに書かれていた内容にひかれスピノザに関心を持った。

『エチカ』を読んで、すべてが理解できた、というのは勿論ない。しかし、とにかく衝撃だった。

うまく表現できないが、何か世界の本当の真理に触れたような、すべてが開放されたような、清々しい感覚である。ジル・ドゥルーズの『スピノザ実践の哲学』で引用されていた次の文章が、当時の私の心情をぴったりと言い現わしてくれている。

「あんな思想にぶつかったら、誰だって魔女のほうきに乗っかったような気になります。あれを読んでからの私は、もうそれまでの私とは同じ人間ではありませんでした・・・」

(マラマッド『修理屋』より)


あれから20年近くの歳月が経ったが、スピノザのテクストは、今でも私にとっての生の指南書である。

アインシュタインにも言及されていたあまりにも有名なスピノザの「神即ち自然」という考え方は、この『エチカ』において理解できるだろう。

しかしスピノザの神は、当時世間を支配していた神の考え方(人格神)とは正反対のものであったため、スピノザは呪われた思想家としてのレッテルを貼られることになる。

スピノザにおける神は、人間の運命を左右することもなければ、人間を救うこともしない。個々の人間の感情や行為の善悪によって何かを決定することもない。

神というのは、そう名付ける他ないからそうしているだけで、スピノザが言う神とは、この森羅万象を生み出す力=エネルギーそのものの意と解せる。実体という言葉にも置き換えられるが、それは決して意思を持つ生命とも違う。そこに主体性を持たせてしまえば、ヘーゲルになるだろう。

スピノザの神・実体とは、この世界の力そのもの。

その力が、世界を造り(能産的自然)、世界そのものとして在る(所産的自然)。自らを自らが産み、自らで表現する。その両義性を、スピノザは自己原因と定義し、自己原因でありえるのは神だけなのだ、とした。

従って、17世紀に生きたスピノザの神の概念、世界観はきわめて現代科学の世界観に近似しているのである。

だが、そのあまりにも先進的、唯物的な神のあり方に、スピノザは汎神論者であるという判断がされたのもやむをえないのかもしれない。

また、よく言われるように、スピノザは人間の自由意志を認めない、決定論的世界観を打ち立てているため、スピノザの哲学には「主体がない」「主体の自由、責任を問うことができない」とも言われている。

しかし、それはエチカの第一部の印象があまりにも強いための誤解ではないだろか。スピノザは人間の精神と身体についてを定義し(第二部)、人間の主体が持つ力そものである「感情」について、第三部、第四部と2章分も割いているのだ。

そして第五部は、この世界認識において、なおわれわれにとって倫理はいかに可能かを問う、知性の能力=生の実践(自由の実践)についてが描かれて終わるのである。第五部はとりわけ、受動的な生から能動的な生への転回、主体の倫理的実践的な転回が求められるという点で、カント哲学にきわめて類似しているともいえる。

スピノザにおいては精神の自由意志は否定されるが、自由は定義される。しかしその定義は「神を必然的に認識すること」「自己の本質においてよりよく生きること」を自由とする。反対によりよく生きれない=感情に支配されている間は自由でないとされる。

「神を必然的に認識する」とは、この世界(自然)、私たちの身体(精神)がどうあるかをしっかりと認識することである。「自己の本質においてよりよく生きること」とは、自分に与えられた生の最大限を生きるということである(蝉は蝉という自身の条件において最大限に生きるように)。

スピノザ思想の受け止め方は、もちろんいろいろあってしかるべきだし、さまざまな研究書も出ているが、ドゥルーズも言うように、スピノザの思想は難解ではあるが、哲学者や研究者のためだけにあるのではない。それは誰にでも開かれた生の実践の書なのである。

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