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『自由意志の向こう側(木島泰三著)』を読んでみた。スピノザにおける決定論、自由意志の否定を中心に

久々に読み応えのある本に出会った。哲学の問題は、存在か認識か、という問いの歴史に他ならないと考えるが、それと同様に重要な問題が、この著者が主題としている、世界に目的(意味)はあるのか、目的はないのか、あるいはそれらに紐づいて、人間に自由意志はあるのか、自由意志はなく決定論的なのかという問いである。

著者はそれを、古来より哲学・神学の領域において展開されてきた歴史を丁寧に紐解き、近代科学においてダーウィンを経ての生命科学、心理学、社会科学、現代物理学までを射程に入れることで、この問題に一つの導きを出そうとしている。

いろいろな観点から語るべき著書であるのは間違いない。古来より、人間は人間の合目的的行動、世界における存在の意味を「神」に求めてきた。

だが、ダーウィンは、生命の内在的衝動や合理的な選択によって、結果目的的な行動をとっている、とすることで神なしにそれらを説明してきた。

興味深い内容は多々あるのだが、私にとって、特に関心が高かったものは、この著者自身が、理論の軸にしているスピノザの、恐るべき先見性である。スピノザは17世紀の哲学者であるが、この著作の締めくくりは、スピノザの決定論的世界認識と、現代物理学、量子力学の世界観にさほど隔たりはないという事実である。

現代物理学では、量子力学的事実により、世界は確率的であり、未来を決定するのは観測=それが事実となるまでは不確定、非決定であるとされるが、そのことは、スピノザ哲学の核心にある、因果的決定論と相反するようだが、実はそうではない。

量子力学の世界は、かつてライプニッツがスピノザに対抗して、設計した世界観=可能世界に類似するものに思えるが、決定的に異なるのは、ライプニッツは可能世界を選択し、現実に収斂させる神の意志を介在させてしまっているということである。

この考え方は現代においては容易に反駁できるだろうが、量子力学的世界は、神の意志を必要としない。一方で、スピノザの決定論は、あらゆる因果関係において、たった一つの未来がすでに決まっている、神がすべてを決定しているから、それに従って生きるほかない、という話では決してない。

無限に関係性が生成する世界において、ただ一つの現実だけが、そのつどそのつど、因果関係において決定されているのであり、その現実は、他でもありえたが、そうではなく、こうなる他なかったというような「一回性」のことである。

スピノザはそのようなものだけが現実であり、現実になりえなかったものは、可能世界としてあるのではなく、人間の表象レベルにおける「可能性」にすぎないとしているだけである。そして、「偶然」という考え方も、人間の無知における誤謬、表象であるとする。

量子力学においては、粒子は確率論的な振る舞いをするが、これはたんに人間にとって、複雑かつ、理解しえない振舞いということにすぎない。それらは、物理学者においてさえ偶然と呼ばれるような産物であったとしても、サイコロをふった瞬間、きまった出面は、それだけが唯一の現実であり、この唯一の現実を、スピノザは「神の現れ」としており、それは人間的な心を持った神の意志でもなく、偶然的なものの振舞いではなく、現実へと収斂されていく関係性の生成そのものなのである。

したがって、スピノザの決定論は、量子力学的世界と矛盾しないどころか、むしろ、量子力学の世界、現代物理学の世界観、事実が、ようやくスピノザの世界の認識に追いついたと考えるべきなのだ。

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