研究授業におけるツッコミという名の指摘〜事実とは何か〜

 小学校の授業は正しくなくてはならない。
 このことはSNS全盛の世の中ではなかなかコマった状況をうみだしてくれます。そこまで批判される筋合いはないとは思いますし、笑えるものも多くあるので・・・とは思うのですが。

 一番有名なのは「夏の大三角」ですかね。私は夏の大三角形と書いても考慮はしますけどね。そもそもこれは夏の大三角が正解なわけではありません。歴史的に言えば。翻訳の問題なので。しかし残念ながら小学校4年生1学期に「どっちでもいいですよ」みたいな教え方はできません。子どもはどっちかにしてほしい子の方が多いからです。
 小学校の教え方が難しいのは、その時点での知識で新しい知識の習得を促さなければならない点なのです。つまり厳密に言えば正しくないことであってもその時点ではその正しくない前提に沿って学んでいくしかないのです。その間違った知識というのは新しい知に出合うことによって訂正されていくことを繰り返していきます。

 あまりよくわかっていない人はこの「その時点で正しくない知識」に対してツッコミを入れてくることが多いということです。も少し皮肉を言えば教えている方もこの正しくない知識に対して、正しくないことを理解していないことも多いのです。
 仕方ないですよね。小学校の先生は少なくとも7から8教科ほどの知識を集積しなければなりません。そうなるとバイリンガルでかつ文学的な素養・常用漢字の正しい使用法、論文作成能力を備え、社会構造と自然科学の知識、ほぼ全てのスポーツのルールと指導能力に加え、料理と被服・住環境の知識、そして楽器の基礎知識・演奏と演奏指導能力を兼ね備えていなくてはなりません。そして道徳的な価値への理解と発達心理学や人権感覚、クレーム対応術、ICTの広範な知識やプログラミング能力、生徒指導の能力、探究学習で使用する人脈なども必要になってくるわけです。

 なんか書いていて、自分の給料がバグっているのかな?と思いました。小学校教員はこれ以上の知見を必要とされているのですが、これって大学教員より専門分化の集積物ではないかと思うからです。
 いや大学教員は深いから・・・聞き飽きました。全然深くないやん。深さは広範さに勝てないことがままあることもよくわかりました。

 保育士と小学校教員は何でも屋でスーパーマンだよなと思ったのはやはり確かですね。なぜか子どもに関わる仕事は年齢が下がるほど基礎算定の給与が少ない傾向にあるのですが、私は下に下がるほど給与は上げるべきだと思います。これはデカルトの方法序説を取り入れた大学教員の責任であると思うのですが、専門分化が偉いというのは方法序説の明らかな誤読です。ここはこれからの教育改革で必要になる視点だと思います。大学教育は不要であると考える起点でもあります。

だいぶそれましたが、小学校の教育内容における「正しさ」って何なんでしょうということです。
 とりわけこの前ツッコまれたのは、国語科の説明文における正しさだったわけです。国語科における正しさというのは実は小学校教育においてはかなりの困難性を持って受け入れられるべきだと考えています。これはもう解釈というレベルと言ってもよくて、解釈は学問としてどうなんだろうと思っている人間としては少し混乱せざるを得ません。

中学生を越えたあたりなら解釈の違いを理解することも可能でしょうが、小学校ではなかなかそうもいきません。では大学教員の国語教育への研究はどうなるかというとどんどん現場の教育方法とは乖離した自分達の解釈の話をしていきながら現場を批判するという手法をとってくるんですね。あとは現場とは全く関係のない文学作品の読み方の話に終始するという文学部へ行けなかったコンプレックスを丸出しにした論考をよく見かけます。読んで見てこれじゃ文学部いけんわなと感じさせる素人感満載ですけど。失笑しかない。
 バラして悪いですが、今でこそ大家として崇められている斎藤孝さんも若かりし頃はこれ系でした。大学生だった私はもう大学教員になっていた彼の宮沢賢治に関する自慰行為のような論考を聞きながらそんなんで大人の側の、教える側の責任が果たせるんですか?という趣旨の質問を投げかけたことがありました。彼のキョトンとした顔が忘れられません。それは少なくとも教育に携わる人間の「構え」としてどうなんだろうと当時思いました。

 結局研究授業でご指摘いただいた「正しくない」んじゃないですかということについても正しいか正しくないかよくわからないというのが正しいところではないかということなんです。仔細は省きますが。そしてよくわからないの日本語ですが・・

 説明文指導における確定的な事実というのは確かに存在します。しかしそれは本文中に記載されてある事実であって、実際には科学的事実ではないことも多数含まれています。つまり国語科における事実というのは記載してあることに関する指摘であってその枠組みを外すことはできないという縛りが課せられていることになります。その縛りがあるから学習として存在していることができる「事実」が「正しさ」があることになります。非常に逆説的で両儀的でありますが致し方ないのでしょう。こうしたことに対して非常にシステマティックに国語科教育の実践に取り組んでいる集団が筑波大附属小学校の連中です。
 私はこうしたある意味不自由で固定的な国語教育をあまり好みません。もちろん個人的な感想で好みの問題ですのでそこに科学的な批判があるわけではないです。

 今回正しさへ対する私からの反論をお示しておきたいと思います。確かには私が授業内で採用した子どもの意見は一般的には正しくないと共通に考えられているような事実が存在した。それは事実です。
 そこで私が正しくないと考えられている事由を採用した理由は2つ。
 一つは、その子どもが授業内で主体性と意欲を兼ね備えて、そして多くの大人が注視する場という異常な環境で私を助けようするとするためだけに発せられた発言というのは、主体性の発露として採用するに値すると授業者が判断したということです。
 もう一つはこうした事実というのは、一回の授業の中での正しいよねという行為だけで完結するものではないと考えているということです。言い換えれば、この正しさは何度も何度も説明文に触れる中でこれって正しいよねとかこれって使える技だよねとか感じることによって知識化、技能化されるものではないかと考えているということです。
 何度も何度も同じことを繰り返すことに意味がある行為というのがあるはずです。公文式はこの発想をシステマティックに磨き上げた手法だと思います。それがいいか悪いかは別にして。この「風呂に入る」ような行為を大事にしたいということです。
 そしてこの対話に主眼においた授業において、この間違った事実に対して異議を申し立てるとするのならそれは授業者の役割ではなく、子どもの役割ではないのかという思いもあったということです。
 大変残念ながら授業を見た人間からはこの部分に対する指摘はありませんでした。のちの研究会でこの話が出た時もこのことに触れる意見は出なかったように思います。これは大学関係者を含めた授業観覧者が対話ということに対して理解がなされていないということになります。同時に主体的対話的授業はどこまで行っても授業者の正しいか正しくないかの教え込みによって成り立っているという思い込みによって成立していることを明確に示している証左になります。 

悲しいけど致し方ありません。この部分について教職員間で対話できたのですから一歩前進と考えましょうか。実はこの正しくない意見を採用するかどうか迷ったんですよね。授業の流れの中で板書する0コンマ何秒の世界で。そうした刹那の時のことを他人と話して再度認識するというのはなかなかある経験ではありません。黒閃をキメてかつそのことをあとで黒閃を使える人間たちと黒閃の使った瞬間のことを話す機会は少なくとも呪術廻戦ではないことですから。その経験だけでもなかなかのご褒美だったと思うようにします。

 これだけのことを考えて授業を設計して実施しても一円にもならないところが悲しいところです。まあカネのためにやっているわけではないのですがね。しかしここに少しでも科研費のおこぼれがあれば現場の実践を輝かせることに貢献できる研究ができるわけです。そして広めることができるわけです。まあ文科省は自分達に都合の悪いことも正直に証明してしてしまう人間たちに対して公費を降ろすわけもないのですが。科研費の権力性は日本科学者会議の件で立証されているわけで、そんなものにしがみつく連中の思考回路はよくわかりません。こちらはこちらでこうした知見を個人的に蓄積して無償で配布していくわけですよ。
 どちらに独立性と正義があるか考えんでもわかるでしょ。

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