思考の原理

マネタイズを求めず、タイパを考えず、流動的な立場での思考を言語化して対話に繋げるを目指…

思考の原理

マネタイズを求めず、タイパを考えず、流動的な立場での思考を言語化して対話に繋げるを目指した『子どもにまつわるエトセトラ』

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不適切とは何なのか?

 最近一番嫌いな言葉。不適切。  良いでも悪いでもなく不適切。悪くはないけど不適切。まあ口にするあなたの逃げ口上だよね。そもそもこれは上から目線の言葉。たしなめるための言葉。およそ政治家や役人が口にする言葉ではない。  こうした職種の人間に許されるのは良いか悪いかのどちらかです。  我々は子どもに向かって不適切でしたねとは言えない。そんなどっちつかずな言葉を口にするわけにはいかないのです。  トイレ行かせなくても不適切、口にセロテ貼っても不適切。なぜ不適切か。簡単です。  

    • 「研究」授業内における対話

      少し前回の続きです。  対話をメインに据えると授業が組みにくい。しかし主体的・対話的で深い学びというキャッチフレーズ上そうも言っていられない。現場の研究担当者が負担感が増す要因です。世迷い事に付き合わされているからです。  しかしここで指す対話とは話し合いレベルのことでとどまっている可能性が高いのでまともに現場がお付き合いする必要はないかもしれないのですが・・・。  しかし諦めの悪い私は諦めず、その先にある突き詰めた主体性へコミット、対話へのコミット、さらにもう少し突っ込

      • ウェルビーイングに対する疑念

         「よりよく生きる」その発想はわからんでもないけれど・・・  それってあなたの感想ですよねを地で行くやつだと思います。 国際比較があるけれど、何の役にも立たないのではないでしょうか?単純に自由優先の国民国家なのか、平等優先の国民国家なのかによって話が全然違います。あと情報の通気性の問題もあります。何にも知らない方が幸せ発想というのは、その昔の日本の寝た子を起こすなという話の中にも如実に現れています。日本が必ずしも情報が行き渡っている国だとは言えなかったということです。  そ

        • 自己内対話とは何なのか?

           個人内対話をどうとらえるかが対話を議論する上でキモではないかと思う。  この場合「もちろんそれもある」は受け付けない。「も」扱いでは困るからである。三流研究者はツッコまれてコマったとき、よくこう言う。これはそこに重きをおいていないという意思表示なのかもしれないが議論するにあたって、よほど無能な集団でない限り論点というのは、ほぼ決まっているハズである。それがないなら論点を決める議論をすればよいだけの話である。  それ「も」で切って捨てるならそれなりのロジックを示すべきでしょ。

        不適切とは何なのか?

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        • 教育問題へのコミット
          6本
        • 特別支援教育
          9本

        記事

          小学校における生徒指導の範囲

           さしあたって、生徒か児童かはおいておく。というかどうでもいい。  まず中学高校で生徒指導担当者が権力を持つという構図がいただけない。  こうしたことが出世の道筋になっていることが学校現場の腐敗構造の一因である。基本的に出世は幅広い観点から評価して行われることが望ましい。女性優先は決して幅広い観点とは言えない。すりかえである。これでは腐敗を一層助長することは疑いない。たとえ女性がたくさん出世してもなにも変わらない。老害の男のような思考回路を持った女性が出世するだけだからである

          小学校における生徒指導の範囲

          閑話休題 参観日に保護者が見たいものって何だろう?

           研究発表会が近いのでサラッと。  参観日に保護者特に親がみたいものは何か。  結論。人によって違うでしょ。 私なら、、まあクラスの雰囲気を見ます。これはなかなか難しい。なぜなら参観日は雰囲気が変わるからです。これを普段通り持っていけるならその担任はなかなかのもんです。それだけでハナマル💮です。親がいることを忘れさせるウデを持っています。  個人的に台本のあるタイプの参観は好きじゃない。そういう意味では二分の一成人式で保護者を泣かしたい教員は好きじゃない。それは卒業式も同じ

          閑話休題 参観日に保護者が見たいものって何だろう?

          保護者のクレームに切り込む

           学校現場におけるクレームというのは、正直判断が難しい。  クレームと捉えるか?助言と捉えるか?それが共同作業の助けになるかどうかの分かれ目であるからである。  さりとてこうしたコミュニケートをばっさり切り捨てる組織というのは閉塞せざるを得ないというのもまた事実である。    ではそうした話に対して、どういう切り込み方をするのが良いのかという話になる。  もう少し言えばどういう構えで望むのかということである。  今、現場感覚でやりにくいのは、どこまで許されるのかとどこまで求

          保護者のクレームに切り込む

          学校のプールについて思うこと

           確かにカネもかかるし、管理も面倒が多いよね。  でもね。  そんな理由で無くしちゃうのはもったいない。  そう思いました。  教科担任制のせいで  丸1年間、プールに入ってなかったんですよ。  久々にプール指導しました。  楽しいのよ。子どもも楽しんでいます。  テンションあがってしまう子どもにヒヤヒヤする場面もあり、指導を入れないと安全が保てないのがゲンジツだとしても。  プール指導がきちんとできない教員は現実とファンタジーの境目がわからないんだろうと思います。教育と

          学校のプールについて思うこと

          閑話休題 怪獣8号

          アニメ版の怪獣8号11話を見ていて思ったこと。 うーん建て付けが呪術廻戦と同じだなぁということ。 それが悪いということでもないし、気付いた私がすごいとかそういうことでもない。 ちなみに今、呪術廻戦がどうなっているか知らない。 でも多分最終回までお付き合いする漫画になるだろう。 結局漫画やアニメというのはそういう意味では最後までお付き合いするかどうかにかかってくるのだろう。 これは楽曲にもYouTubeにもほぼ全てのものにエンタメに共通する感覚なのだろう。もちろんnot

          閑話休題 怪獣8号

          困り感という誤読

           困り感にコミットして課題解決を行いましょうというのは教育や保育の現場ではよくある相談活動におけるとっかかりの考え方。  しかしこれがあんまりうまく機能しないんじゃないかということ。  ちなみに困り感は学研ホールディングスさんが商標登録しているんだそうです。知らんかったなぁ。こんな言葉でどう稼ぐつもりなんだろう?商標登録されてるということは余計使い勝手が悪いよね。  これって逆に言えば、困ってる感覚がない人間は助けられないことになっちゃうんです。そして何より最悪なのは感なん

          困り感という誤読

          幼児教育の視点を小学校に?

           有識者会議というのはどの辺に見識があるのだろうか?  何も考えがないなら、無理して絞り出す必要はないと思うのだが・・・    まず順序が逆である。  どちらが上位であるという話ではない。  幼児教育の基盤の上に小学校教育があるのであるという前提。  そのままの積み重ねのもとに教育が成り立っている。    私は幼児教育にも小学校教育にも高等教育にも関わった。別に偉くもないけど・・・北欧研究していれば、子どもへのそうした関わりは珍しくもない。それどころか老人福祉と保育施設を合体

          幼児教育の視点を小学校に?

          教科としての道徳の調理法

           道徳はもともと教科ではなかった。という話も今は昔という感じです。 教科になったのが2015年ですから随分経ったなぁという感覚です。 戦前教科「修身」として存在したものがGHQによって解体され、1958年学習指導要領から特設道徳として復活してからの60年を経ての言わば再教科化です。  特設から教科に変わって、現職の小学校教員がどう変わったかといえば何も変わっていないということです。(実際には上からの締め付けがキツくなったとか通知表になんか書かなければならなくなったとかあるんで

          教科としての道徳の調理法

          教育におけるダッシュボード??

           ダッシュボードというとエクセルのアレですかね。  まあ計器類による情報の一覧という意味で良いと思いますが、どうやらまたしても戸田市発で教育データの利活用という話になっているらしい。ちなみに言っておけばこのデータの利活用を基盤にしてダッシュボードをつくっている自治体は戸田市だけではない。自治体専門コンサルや新興AI企業にダマされた自治体はわけも分からずバスに乗っているというのが実態である。これは明石の人口増と子育てに対する期待の現れというありもしないデータの虚像もきちんと寄与

          教育におけるダッシュボード??

          学ぶ意図と必然性

           今研究授業を考えていて深掘りするのはなぜ子どもは学ばないのか?ということです。もちろん文科省がこれを肯定していることが良い悪いの話はなく、実際は教員がただ調整しているというだけの話に対しての異論です。と同時に方法論です。  実は学校へ行き勉強するのが当たり前という発想は教員にとって大変ありがたいのですが、それでは役立たない、物足りないというのも事実です。というかこれからの令和の日本型学校教育が意図するところはそこではないからです。ここはココロプラン(不登校対策プラン)と明確

          学ぶ意図と必然性

          先手を取ることの難しさ

           学校現場において先手を打つというのは今の時代必須になっているように思う。後手を取ってしまうと後はサンドバッグのようにただただ打たれるでけになってしまう。そうなれば事態収集に時間がかかるだけでなく、それに関わる人間の精神が削られてしまうことになる。  学校にとって百害あって一利なしである。  しかしこれが今の学校の現実的な姿である。  リスクマネジメントの一言で済ますことはちょっと荒っぽいのではないだろうか?  〇〇マネジメントの話を聞いていつも思うのは、先手の話なのか、事後

          先手を取ることの難しさ

          実務と研究の一体化

           教育における指導と評価の一体化とか理論と実践の往還と言われる。  一体化という話の効率の良さは言わずもがなだとは思うが、どういうコンビネーションをどういう形で行うかということにかかってくると思っている。  これまでにも指導と評価の一体化については触れたし、理論と実践の往還についても話したが、やはりどうもしっくりいかないことには変わりがない。  それよりも現場において一体化を検討してほしい部分というのはいくつかある。その中の最たるものは実務と研究の一体化である。  これ

          実務と研究の一体化