困り感という誤読

 困り感にコミットして課題解決を行いましょうというのは教育や保育の現場ではよくある相談活動におけるとっかかりの考え方。
 しかしこれがあんまりうまく機能しないんじゃないかということ。
 ちなみに困り感は学研ホールディングスさんが商標登録しているんだそうです。知らんかったなぁ。こんな言葉でどう稼ぐつもりなんだろう?商標登録されてるということは余計使い勝手が悪いよね。

 これって逆に言えば、困ってる感覚がない人間は助けられないことになっちゃうんです。そして何より最悪なのは感なんです。それってあなたの感想ですよね?ってやつです。
 福祉的な発想といえば聞こえはいいのかもしれませんが、積極的で迅速な介入が必要なことが多い教育現場においてはあまり良いこととは言えない部分があります。合わないんですよね。

 さらにこの困り感という言葉は二重の意味でズレてきます。こっちからはアプローチしにくいのに、向こうからは気軽に近づいてきちゃんですよね。「えっ、そんなに困っているの?」という感覚です。

 今現場はこの言葉によって攻撃されることもしばしばなんですよね。
 届けたい人には届かず、届く必要にない人に顕在化するというのはミスマッチ以外の何物でもないわけです。
 このミスマッチは誤配でしょというような簡単な話ではなくなっています。教育や保育の現場では、教員や保育士の側からの逆の効果の強化が行われているからです。
 対応すべき話に対応できなくなってしまうし、対応すべきでない話に対応せざるを得なくなってきます。これは一見働きかけを行う側の課題であるように見せかけて、実はイメージによる、社会的な構造によるミスマッチである可能性が無視できません。救急車タクシー化問題に近い。さりとて有料化すればよいという話ではない。ビニル袋を有料化して何の効果があったのかという話です。
 ハラスメントという言葉はあまり好きではありませんがカスハラに対応する企業が増えてきたのはある一定、こうしたイメージに対する線引きがなければ労働者を集められないという企業側の危機感に他なりません。対応しなくても良いことにまで顧客が侵食してくるということは実は今までにもあったはずです。特に大口の顧客はそうした非対称性を露骨に発揮してくることによって有利にコトを運ぼうとするということなのでしょうけれども、それでは成り立たなくなってしまうシステムもあるということです。特に保育や介護はこれで崩壊してしまった感があります。サービスが商品化され、逆に質が落ちてしまうという話です。イヤならカネ払えよというのは実は担保でも何でもないということです。カネ払っても事故は起こるときには起こるし、起こらんときには起こらんだけのこと。それは別に質が高まっているわけではなく、責任の所在の押し付け合いをした挙げ句みんなが投げ出してほっかむりするというよくあるパターンです。

 これが決壊した場合、弱い部分を目指して来るというのは明確に教師個人の受け答えの問題ではないということです。にもかかわらずほぼ全てがクレームとして担任個人の懐に投げ込まれているんです。学校としても担任個人へ来る。これに加えて担任はクラスルームの中で個人的に対応したい課題に対して相手に困り感があるかないかを考えて行動する必要が出てきます。そして困り感がないと言われてしまうとこちらにどれだけ困り感があったとしてもその困り感自体を共有することが不可能になってしまうわけです。この困り感の非対称性というのはそれこそ困りもので、重なり合いにくさをハンパないです。こちらが寄せていくとあちらが逃げていくような感覚に囚われるのは多分教員の側だけの感覚ではありません。保護者や子どもの側からの感覚も同じようなものだと思います。だから腹立たしいのだということ。

 困り感というのはこうした両者の課題に対する線引きをうやむやにしてしまうことにつながっているんのではないかということです。
 一度困り感による問題対応という線引きの仕方を放棄してこれ以上は対応できないであるとか、これ以上の場合には踏み込んで良いという一歩引いたぐらいの譲り合いの精神を発揮した設定にしていかなければ教育や子育ての現場における課題対応というのはできなくなってしまいます。

 それは我慢しない奴は永遠に我慢しないし、我慢する人は永遠に我慢を押し付けられてしまうという日本社会特有の構造です。離脱や異議申し立てが効きにくい。だから退職代行というショーバイが成り立つ。真面目に生きること自体アホらしい状況です。こんなんで社会がうまく回っていくことはないでしょ。
 もう少し真面目で愚直な人間が評価される社会になっていくことを目指した方がよくないか?困っている人にまなざしを向ければみんなが困っていると言い張る社会になるなら、がんばっている人にまなざしを向け、みんなががんばってると言い張る社会になる方が良い気がする。それを競争社会だと断ずるならそれはお好きに、ということ。

 どうあれ、困り感を相手にするのではなく、困り感がある人間にどういう個別な困りなのかを判別するワンクッションを持たせないと現場は立ち行かんでしょ。とまで書いてそれじゃ今までと大差ないなぁと思った次第。
 なので、も少し辛辣に言えば現場に判断する権限と事例公表する義務を与えてみてはどうだろうと思った次第。もちろん個人情報に抵触しない範囲で。そこに責任を持つのは現場ではなく教育委員会制度。この場合教育委員会制度の方が権限が下でなければ成り立たないけど。

 まあ商標登録の件も含めて使わん方がいいでしょ。困り感。

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