小学校における生徒指導の範囲

 さしあたって、生徒か児童かはおいておく。というかどうでもいい。
 まず中学高校で生徒指導担当者が権力を持つという構図がいただけない。
 こうしたことが出世の道筋になっていることが学校現場の腐敗構造の一因である。基本的に出世は幅広い観点から評価して行われることが望ましい。女性優先は決して幅広い観点とは言えない。すりかえである。これでは腐敗を一層助長することは疑いない。たとえ女性がたくさん出世してもなにも変わらない。老害の男のような思考回路を持った女性が出世するだけだからである。これでは余計女性は働きにくくなる。教職が魅力がなくなっている大きな要因である。
 キナ臭い権力にまみれた安心安全のない仕事に就きたい人間はいないという見本みたいなもんである。政治家みたいなもんで、そこに権力や名誉があるなら腐っててもOKというクズの発想ならそれも良いだろう。
 しかし風通しの悪いクズの下で働くというのはとてもじゃないが我慢できんでしょ。しかも教員やっても地元の名士にはなれなくなった。これは偉大なる先人が悪事を働きすぎた功績です。バカが偉そうにして挙げ句犯罪に手を染めるという先生のイメージを植え付けてしまったからです。
 
 話がそれたけど、生徒指導担当者が学校や地域で発言権をもつことは伝統的に甲子園常連校の関係者が権力を持つことに似ている。その他にも教育現場では特定の集団が継続的に既得権を持つことが常態化している。
 どこぞの校長会がカネをわたしまくっていたのも報道されている通りだと思う。いや、あれでも控えめに報道されているのかもしれないとまで思ってしまう。首長お得意のパフォーマンスだとしてもきちんと追求しておいた方が良いと思う。

 さらにそれてしまったが、そうした悪いイメージに重ねて生徒指導には相当困った状態の子どもとその家庭に対応するという面倒なことというイメージが固定化されている。これは明確に誤ったイメージである。このイメージが新たに既得権を持ってもしょうがないくらい大変なことをしているという生徒指導担当者の権力の正当化という悪循環を繰り返しているのである。

 もちろん生徒指導のなかにそうした仕事があることは事実である。特に中学校や高校の場合はこうした事件への情報提供元としての生徒指導担当者というのは、警察や教育委員会にとっても重宝する存在である。それがとてもよくない。
 情報の非対称性というのは、権力や金銭などの既得権と結びつきやすく腐敗を呼んでしまう。これに対する腐敗側の言い分はいつも自分たちは必要悪であるという大義名分であり、その汚れ仕事を一手に担っている英雄気取りなだけである。

 そういう意味での生徒指導の開放性というのは、学校の既得権を排除して学校を正常化、清浄化するのに役立つ行為である。少し成員全員の努力は必要だけれども。
 みんなに行き渡れば価値が低くなるというのは、経済の大原則である。ダイヤモンドが全ての家庭に行き渡れば、ほぼ無価値になるのと近しい。実際のダイヤモンドの埋蔵量というのはそれが可能になるぐらいあるのだが、そこは情報の非対称性で絶妙に生産管理がされていることが金との違いであるとはよく言われることである。
 情報が解放され、誰もが生徒指導の一端を担うようになれば、そのことに絶大な価値が付与されることがなくなるということである。これは皆が重大事案にアクセスすることを意味しない。実は生徒指導担当者というのは別に重大事案でもないことを大変そうに見せかけるということをよくやるからである。
 暇そうな民生委員や仕事のない福祉関係者も同様にこうしたことをやって自分の存在価値を示そうとする。
 学校において重大事案の認定者というのは管理職で十分賄える範囲の仕事のはずである。それを生徒指導担当者に委ねるのはただの言い訳であり、共犯者づくりであって、そういう意味では職務放棄に近い。簡単に言えばただサボりたいだけである。そう学校管理職は大変そうにしているだけでただサボりたい教員がなるものである。これは感想ではない。事実である。特に定年後も管理職に居座っている奴は既得権にまみれた名誉欲のカタマリである。現場にはイラナイ。
 それたがそもそも重大事案であるかどうかというのはそんなに判断の難しいものではない。特に保護者のクレーマー認定さえ済んでいれば、尚のことである。

 クレーマーには重大事案認定をする必要がない。騒ぐだけ騒いで自分たちが悪くないことを主張したいだけの輩だからである。問題はクレーマーが加害者になったときである。これだけで生徒指導上の重大事案であるかを即座に検討する価値がある。
 なぜならクレーマーもクレーマーの子どももなぜか自分たちは許される存在であるという勘違いをしてしまっているからである。さらに相手の傷口に塩を塗りこんでおいて善いことをしたと思っているからである。

 これらは担任が十分に理解していることである。というか3ヶ月もすればこうしたことに悩まされているはずである。これはもうその時点で立派な生徒指導の重大事案の取り組みそのものである。担当者よりも。
 つまり生徒指導というのは誰もがアンテナとして感知しやすいものであるはずなのである。あとはそれを責任ある人間が判断するだけですむ話である。それに沿って対応すればいいのだが、今の学校現場はこの責任ある人間がバグっているので重大事案認定がうまく行かず、教育委員会にまで話が行ってしまうのである。残念ながら教育委員会というのはこれの下手な人間の集まりである。
 なぜか世間の人はこのことを知らず、学校への嫌がらせとして教育委員会へいけば現場の教員をたしなめられると思い込んでいる。実際はそんなことはない。彼ら、彼女らは仕事ができず、なにより授業や学級経営が下手すぎることは現場にとって周知の事実だからである。何度突っぱねて逆に委員会側に謝罪していただくハメになったことか?
 出世を見越した責任回避のための判断先送り人間の集団である。みっともないことこの上ない。
 結局彼ら、彼女らは揉めるだけで揉めて国民の税金で裁判を闘うという馬鹿げた行為をやらかすわけである。自腹でやれよと思うのだが、彼ら彼女らは自分の個人的な無能による失態を公務上の欠陥にすり替えるのである。そうした才能だけはある。行政のマニュアルには制度の悪用方法だけがうず高く積み上げられている。
 プールの欠陥は現場の人間のせいにするくせに自分の無能は制度のせいにするのである。どういう精神構造なのだろう。

 生徒指導の開放性について進めたいのだが、なかなかうまくいかない。さほどこの問題は阻害要因が多いのである。それは組織の問題でもあり、そこに巣食う個人の問題でもあるからである。
 実際、ウデのある教師は日常的に生徒指導や道徳指導を織り混ぜて学級集団づくりを行っている。どうせ個別に行えるなら担当者などイラナイのである。基本的に自分のクラスに余裕のある人間は、余所にも手を貸します。
 ただ個人的感覚で恐縮ですが、最近これがうまくいかないことが多いです。歳をとってヘタクソになったのかなと思って落ち込んでいたのですが、よく考えてみると違うことに気づきました。生徒指導の前提条件がクラス単位で全く違うんですね。これは中学高校ではあり得ないことです。ここに一番注力している校種なので当然と言えば当然なのですが、そこは小学校における生徒指導の課題と言えるのでしょう。
 なので私の指導内容がさほど不適切でなくても不適切だとクレームがついたり、子どもに指導の意図が伝わらなかったりしたわけです。
 これは生徒指導の前提条件、子どもの構えであったり、ルールであったり、行動規範であったり、社会通念であったり、家庭の状況であったり、子どもの成長度合いであったり、学校での教えてあることの積み重ねであったりすることが明確にズレているわけです。

 実は小学校に若手の割合が増えた弊害はここに明確に出ています。もちろん自分を振り返ってもヘタクソだったことは認めるので致し方ないことだとは思います。他人のせいにだけはできません。さればこそ生徒指導の視点を小学校のクラス経営にぶっこんで共有しながら若手を育てていくことはこれからの学校の平和を維持していくため必要な「未来に投影された過去」であるわけです。この言葉は「街場の米中論」で内田樹さんが使った言葉ですが、学校現場が過去の起点によって未来が紡がれ新しいことにつながるという意味でピッタリな言葉だと思います。

 新しいことをやれば学校がうまくいくわけではない。
 カネをかければうまくいくわけでもない。
 過去の起点において生徒指導がうまく機能していたことに学んできちんと言語化して伝承して研究して対話していくことが常に明るい未来における過去の投影であるということを明言する必要があるわけです。
 それは懐古主義とか復権とかそういうことではない。
 生徒指導を学習指導との双璧としてバランスよく探究していくということです。ICTだけを探究だけをマネジメントだけを授業改善だけをやってもそれを進めるための規律やルールが伴っていかなければ、思い通りの効果をあげることは叶いません。

 そうした意味での生徒指導の概念の日常化を、そしてその日常的伝承を今の小学校教育の中に位置付けていくことに舵を切っていく必要があるということです。
 もちろんこれは権力志向することと同義ではない。もう少し言えば全く得としない人間の集団が学校の平和を守るために形のない形で組織される必要があるのかもしれないということです。それぐらい意味がわからない、そしてそれぐらい実現不可能なことを考えなければ今の学校現場の正義や平和というのは維持できなくなっているということです。

 全く危機感のないあさっての方向を向いた既得権にまみれた連中に捧げます。

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