保護者のクレームに切り込む

 学校現場におけるクレームというのは、正直判断が難しい。
 クレームと捉えるか?助言と捉えるか?それが共同作業の助けになるかどうかの分かれ目であるからである。
 さりとてこうしたコミュニケートをばっさり切り捨てる組織というのは閉塞せざるを得ないというのもまた事実である。
 
 ではそうした話に対して、どういう切り込み方をするのが良いのかという話になる。
 もう少し言えばどういう構えで望むのかということである。

 今、現場感覚でやりにくいのは、どこまで許されるのかとどこまで求められるのかのバランスが崩壊しているところにおかしなコトが起こってしまっているわけです。

 全く成果を求めないのなら、教職は特別何かをする必要がない。しかし何かしら成果を望むならそれなりにコンフリクトな状態が浮かび上がることを許容していただく他ない。後は加減の問題である。
 文科省なり保護者なりが、すごく無茶を言うならそこそこスパルタにならざるを得ない。それはそれこそ許容範囲の問題だろう。
 今の学校現場の状況は、極端に言えば強制を許さずに学力を上げろと言ったり、懲戒を許さずに平和を守れと言ったりしているようなものである。そんな魔法のようなムチャクチャを受け入れる仕事をやりたい若者がいると思っているのだろうか?
 そうしたムチャクチャは放置したまま、残業代も認めず目先をずらす給付をするとか、新卒の青田買いをすればとか、ペーパーを認めるとか、奨学金の返済を肩替わりするとかいうのは問題のすりかえにすぎない。
 まあ本気で解決する気がないだけか、もしくは相当頭がよろしくないのか、アンテナがもげちゃってるかでしょ。

 学校任せにせず、文科省と保護者で合意すれば良い話。以上。
 文科省には利用者の声は届いていない。利用者以外の変な奴の声はすごく届いているのに。それを真に受けて政策を練るからおかしなコトになる。
 
 結局そうもいかないので、現場がサンドバッグという構図です。
 手始めにクレームに切り込む、つまりまともに受けて立つ場合、それをクレームと認定するかどうかという話が重要になってくると思います。クレーマーの性質として、とても重要な概念に自分はクレーマーではないという意識が前提にあるからです。
 それじゃ認定しない方がいいのでは?もちろん本人にあなたはクレーマーですねなんて言いません。受け手の認識として共通にクレーマーであるという視点があるのとないのではずいぶん違うからです。
 学校を挙げて認定してあげれば天下御免のクレーマーです。本人がどう言おうとどう思おうと関係ない。それはネグレクトなどにおいても同様です。
 ただ愛着障害を口にする人間は信用できません。つまり事実の積み重ねの中に判断基準があることが重要です。愛着など目に見えません。これを口にする教員は信用してはならない。クレーマーだからです。
 同様に、悪いことしていないのに怒られたという保護者の訴えも事実の認識からして信用できません。これは保護者にとっては目に見えない問題です。実際に見てないからです。おそらく子どもの話を信じたのでしょうけれども子どもでも大人でも同じですが自分の感覚というのは安易に信じられないものです。そんなに自信があるならその感覚を文章化すればよい。
 ケータイを見ながら歩いている大人がそれを文章化すれば必ず「ちょっと」とか「しただけ」とか「してない」いう言い逃れを可能にするワードであふれかえります。そういうことです。自分は言い逃れするくせに相手に言い逃れを許さない人間をクレーマーというのです。この非対称性がクレーマーの真骨頂です。クレーマーがクレームにまみれて自分のことが見えなくなっている状態におちいれば、後は何を語りかけても無駄です。
 実は個人的な見解で恐縮ですが、善かれと思ってサマザマ口出しをする保護者というのは私はクレーマーだと思っています。熱心なPTA役員というのはピッタリそこに当てはまります。熱心と一生懸命は全然違うんですよね。一生懸命は応援します。熱心には関り合いません。熱心な人間は自分のロジックで他者を攻撃するからです。そう非対称性です。参加しない人間に対して偉そうにするのはどうかと。そこには、教員も含めて参加しないくせに偉そうにするアホがいるからなんでしょうけど。

 それましたが、実は今学校内でクレーム認定するという話し合いに時間を割くことができているところはほぼない。一番の問題は時間がないに尽きる。でもそれは変なことに時間を割いているからであるので、その変なコトを減らして捻出していくのが正常な道筋です。しかしなぜか職員室にはその真っ当を変なロジックで元に戻す力が無批判にはたらきます。
 これもクレームの非対称性の産物であることはある程度の説明がつく話です。これを学校組織マネジメントとか心理的安全性とか、果ては生徒指導やカリキュラムマネジメント、授業改善でなんとかしようするのはめくらましにすぎません。
 単純にクレーム認定すること、それはうちに向かってもそうだし、外に向かってもそうです。特に内に向けてそうした姿勢を示すことはそれだけで自浄作用を促します。それをただ保護者に向けて援用するだけの話です。子どもは働きかけられる分、選別する必要にかられませんが、保護者には働きかけることはできない存在であるので明確に選別することしか対応がありません。
 現場におけるこの選別を現場のウエにいる学校管理職や直属の教育委員会と都道府県の教育委員会がきちんと向き合えるかどうかがこの保護者のクレームに切り込むかどうかの分かれ目になるということです。
 もちろんこの選別は極めて慎重に行われるべきですが、実際問題これはものすごくわかりやすく極端な話になってしまっています。こうした人間は安定期があったとしてもいずれ馬脚を表します。
 無知な大学教員がクレームを現場の活性化やカイゼンに生かしましょうみたいなことをまきちらしますがこれはクレーマーにとっては美味しい援護射撃です。自分たちの行為を正当化する外部というのはクレーマーにとって希少です。本来クレーマーというのは自分の中で問題を生成し続けることのみによって生き長らえることを己の存在意義とします。
 本来この問題を立てること自体が無意味であることを指摘することが大学教員の使命であると私は思うのですが、そこに切れ込んでいけるほどの知識と勇気を持ち合わせていないのでしょう。そういう意味では自称知識人というのはクレーマー同様困った存在です。

 ここをどうにかするだけで対応方法が変わり、対応する人間にも心の余裕がうまれます。悪い管理職はここでも自分だけで受け付け、自分勝手を発揮して自分スゲーを見せつけます。保護者にも教員にも子どもにも。最近はこのアホ行為を教育委員会もやらかすから始末が悪い。情報の非対称性を自分の出世や存在意義を示すために使うんですよね。
 その意味でこのウエはクレーマーや自称知識人と同様の存在になります。こうしたものもまとめて認定していく必要があります。

 こうしたことで真面目な教員が消耗することは避けていかなければならないということが自明にならなければ教員が安心して働けることにはならないということです。それどころかクレーマーの存在を正当化するという道筋を選択したらその先にはフツーにしてくれている子どもや保護者が迷惑をこうむるというあり得ない状況を露呈することになるわけです。
 今の学校現場はこのフツーの存在を守る正義が存在しないという状態です。声を上げない人たちを抹殺していくというニッポンの美徳とは逆をいくことが平然と行われています。
 こうならないようにお願いと啓蒙と成果を見せつけていく(言い方が悪いですが)のは実はクラス単位でしかできないんです。学校単位ではデカすぎるし、個別では手間がかかりすぎる。
 であるならクラス担任というのはこうしたクレームに対応することに対する手厚いサポートを受ける必要があるとのいうことです。これが学校運営そのものになります。
 そのサポートの内容というのが認定であり、その認定に基づく対応になるということです。学校管理職や教育委員会、文科省、議会がこの認定を受けてしまった場合は正直絶望なのですが・・・
 その場合は潔く諦めてしまうのも一手です。無駄に足掻くのは自分のメンタルのためによくないからです。そんな学校は早晩崩壊してしまいます。間違いなく。さっさと諦めるためにも認定の了解と合意をつくることは大事ですねという話です。

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