教科としての道徳の調理法

 道徳はもともと教科ではなかった。という話も今は昔という感じです。
教科になったのが2015年ですから随分経ったなぁという感覚です。
戦前教科「修身」として存在したものがGHQによって解体され、1958年学習指導要領から特設道徳として復活してからの60年を経ての言わば再教科化です。
 特設から教科に変わって、現職の小学校教員がどう変わったかといえば何も変わっていないということです。(実際には上からの締め付けがキツくなったとか通知表になんか書かなければならなくなったとかあるんですが・・・)中学校には道徳の先生がいないので、そこは大変だという話です。そういう意味では中学校の免許制度というのはかなり崩壊してしまっているということです。新設教科があれば免許を増やしていかなければならないというのはあり得ない制度設計です。制度そのものが制度や成員の存立意義を否定するからです。教科「情報」の教員は60%が免許を持っていない人間が教えていた事実に別にいいじゃんと言ってしまうということは中高の教員は半分ぐらい免許持っていなくてもいいじゃんということになっちゃうからです。それを認めてしまえばみんな免許いらないじゃんになってしまいます。
 運転免許や医師免許を見てもわかるように命の危険があるかどうかが起点になるなら教員免許は必須ではなくなってしまいます。実はそういう意味でもこの話は面倒な側面を持っています。道徳の授業の専門性がよく分からないことも手伝って。カオスな中学校の道徳の現場を支えているのは実は子どもが持つ小学校での学習した基盤だけということなんです。中学校教員はそれだけを頼りに国語の心情授業のような話をして自分たちにとって都合の良い社会的に正しい価値を子どもに押し込もうとしていることが丸わかりです。

 もちろん小学校がどこでもうまく成立しているわけではないですが、小学校教員には経験でカバーできる部分があります。あと生徒指導があまりうまくない部分も道徳には良い意味を提供できる可能性を残しています。道徳と生徒指導の現状はあまり親和性がよくありません。なぜならよりよく生きることと問題を回避して先送りすることは考え方の根本が違うからです。長い時間をかけて考えることができることと即時解決することが必要なことの違いというふうに単純化すればわかりやすいでしょうか?

 さて、実際問題これらの話を横目で見ながら教科「道徳」をどう調理していけば良いかということになります。
 結論だけ言い切ってしまえば結論より過程に意味を持たせ、重視する必要があるということです。

自己評価が甘すぎる子どもに対して

 子どもは年齢が低いほど自己評価が甘い傾向にあります。全能感と言ってしまえばそれまでですが、そう単純でもありません。そうでない子もいるからです。全能感からくる完璧主義者は自己評価が辛すぎる傾向にあるからです。何にもできない、友だちがいない、学校でそう訴える子どものというのは結構多いんですよね。極めて正常な感覚だと思いますが保護者の中には過剰に反応する方もいらっしゃいます。
 道徳では自分の正しい評価というものに対してきちんと向き合わせようという筋道が大切だと思います。甘すぎる子には締めていく、辛すぎる子には緩めていくということです。しかし一斉授業ではこのやり方は結構難しいんですよね。長い時間の訓練が必要になります。別に教師がいなくても遊びの中でも十分に成立する可能性があります。「毎日道徳」とのたまう昭和の教員たちが日常の生活を材料として道徳の課題を達成していこうとするスタイルで学級経営を行ってきたという具体的な経緯があります。
 過程としての自己評価への正対というのは、自己評価が甘いもんだという子どもらしさを認めつつ、そこからの前進を目指していくという意味で道徳全体を貫く課題になっていくと思います。

きちんと意見の表明をさせる。

 その上で自分自身が考えていることを形にして表明していくことが必須になってくるということです。
 実はこれができない、もしくはしないことが正しいという価値判断をもった子が増えてきている感じがします。もしかしたらこれまでそういうことを意識していなかったから意識すれば増えたように感じているだけかもしれません。いじめの認知件数や高学年になると挙手しなくなる問題とかと同じ話なのかもしれません。
 これがおそらくできていないこと、できてると思っていてもそれは本音ではないことが問題を難しくしています。回避する方法としてニコちゃんマークを描くとか本音でなくても良いとかいろいろな言い訳がありますがそれらは少なくとも子どもの側の過程としては、そして教師の側の狙いとしては適切ではないと考えます。結果云々ではなく目指す場としてのクラスルームはそこではないということです。
 ここが教員の腕の見せ所という感じです。
 できるかできないかではなく、やるかやらないかという視点です。

そして意見を訂正させること

 意見の表明があった上で訂正するという過程をたどれるかいうことです。別に良き方向に変えさせろということではないのが訂正ということです。もう少し小ずるい言い方をするならば、その状況に応じた自分の選択肢を広い視野から見て最も自分の都合の良い方向に持っていくという作業になります。そのためには自分の心理的安全が保障された場においての他人の都合や助言など含んだ意見交流が必要になるということです。
 それが訂正につながるかどうかは結果論であるので、さして重要ではないと考えます。というか訂正されるためにはきちんと自分の意見が形成されている必要があるということです。
 道徳教材というのは、ありがちが散りばめられているのですがその役割の本質は「我が事ではない」ということです。だからこそ考えてあげられるという側面があります。我が事だと冷静になれないし、公正になれないのが子どもの性質だからです。そこを入り交ぜらせていくというのは道徳だけでなく教育全般が目指している行為の一部なのですが、我が事ではないことの訂正というのは実はそう大きな意味があるとは言えないんですよね。全く意味がないとは言いませんが効果が薄いです。これが道徳の議論でよく言われる実際に役立つかどうかの話につながってくると思います。

道徳による自己変遷と自己形成の過程

 つまり道徳において受容と変化が同時進行で行われる必要があるということなんです。
 受容だけでは機能しないことは受容と共感が流行ったときにさんざん議論し尽くされました。しかし、そのセットでも受容は良い方向だけには作用せず、善悪二面性を抱えたまましか存在できなくなってしまったんです。これが受容という受け取り手しか考慮に入れることができない概念の弱点です。だから共感というちょっと範囲がよく分からない、そして何より意味がよく分からない言葉とセット販売されることになったわけです。共感は見た目に中身がよく分かりません。していると言えばしてることになるし、してないと言えばしてないことになるという感情と恣意性が丸出しの感覚的な設定にすぎません。
 そこで受容のセット相手として変化が伴うかということを見てはどうだろうということです。そうすれば変化を評価ポイントしてみることができるからです。道徳的価値を他者が評価することの可否については特設道徳の成立過程でかなり多くの時間、議論がなされてきました。そして道徳が実際に役立つかということとも重なり合ってきます。

 子どもが変わっていくというのは良い面も悪い面も両方を含んでいます。しかし大人になるということは変わるということを耐え抜くということでもあると思います。
 もし教科道徳に意味があるとするならば、そうしたことに寄与する一面を発揮できるか、それもなるべく大きな形で発揮できるかどうかにかかっているのでないかなということです。

 ちなみに道徳の調理法には諸説あります。
 宗教が大きな位置を占める国には教科道徳がありません。教科修身はそういう意味では宗教だったのかもしれません。それは良いとか悪いとかいう意味ではなく。無宗教日本において価値意識について言及する機会を持つこと自体に意味があるとすれば、実は道徳と生徒指導は同じ方向を向いていなければならないのかもしれません。
 そうはなっていないし、多分社会制度の理念とも大きくズレているんですけどね。日本はそこを議論すること自体がタブーになっている不思議な国です。もしかしたらここから滅んでいくことになるのかもしれません。

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