閑話休題 怪獣8号

アニメ版の怪獣8号11話を見ていて思ったこと。
うーん建て付けが呪術廻戦と同じだなぁということ。

それが悪いということでもないし、気付いた私がすごいとかそういうことでもない。

ちなみに今、呪術廻戦がどうなっているか知らない。
でも多分最終回までお付き合いする漫画になるだろう。

結局漫画やアニメというのはそういう意味では最後までお付き合いするかどうかにかかってくるのだろう。

これは楽曲にもYouTubeにもほぼ全てのものにエンタメに共通する感覚なのだろう。もちろんnoteやX、InstagramなどのSNSも。
受け手の側がどこまでお付き合いするか?
もしかしたら学術の世界にも同じことが言えるのかもしれない。
一時期の流行りではなく、ウォッチし続ける人間が多くいる領域というのはそのまま隆盛が続くのだろう。

 挫折してしまうことを考え直してみるとYouTubeの視聴は挫折の連続であったかもしれない。試聴した内容というのは決して消えずに個人の中に残っていてなんかのきっかけで戻ってくるのだろうが、それが事前に意識されることはない。全てが事後の出来事に過ぎない。
 
1990年代の音楽というのはうるさいぐらい消費性が語られた。作るだけ作っては消費されることが音楽の本質のように語られた時代であった。しかし今聞き直してみてもそのメッセージ性やリズムやメロディに消費しつくされてしまったくたびれを感じることはない。それらはまだ消費も連結も可能である。それは実は最高の発行部数を誇っていた週間少年ジャンプの漫画群も同様である。ドラゴンボールが生き続け、スラムダンクやシティーハンターが再生していくように。
 奇しくも怪獣8号はジャンプ作品だ。+とは言え。

人間の脳みその、その場その場における記憶の連結というのはなかなか優秀ではないかと思うわけです。そうした記憶や感覚の連結というのは新しい記憶や感覚を作っていくんだなぁと思うわけです。

 そしてここからが大事なのだけれども、多分対話の中にこうした連結や再生が起こってくるのだろうということです。まさかハバーマスのコミュニケーション論までさかのぼるつもりはないのだが、結局人間の人間らしさというか優秀さの発揮は人間の側にしか生み出せないということ。それは人間が優秀であるということではなく、人間世界は人間の妄想の中での入り混じりの中でしか存在し得ないのであろうということであり、そこにおける入り混じり方に妙味があるのではないだろうかという提案である。
 作品は媒介に過ぎないがそのなかだちがあってこその入り交じりである。多分AIもネット社会も媒介に過ぎない。
 だからこそ人間同士や意識が混じることに、混じり方に、混じれないことに、混じり具合に、混じっていた記憶や意識の連結に思いを馳せていくことが読み方であり、作り方であるのではないか?

 それが怪獣8号の真骨頂なのではないか?と思ったところに鈴木亮平さんのシティーハンターが連結してきたなあというオチでした。誰でも思いつくことだと思うけど。

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