実務と研究の一体化

 教育における指導と評価の一体化とか理論と実践の往還と言われる。
 一体化という話の効率の良さは言わずもがなだとは思うが、どういうコンビネーションをどういう形で行うかということにかかってくると思っている。

 これまでにも指導と評価の一体化については触れたし、理論と実践の往還についても話したが、やはりどうもしっくりいかないことには変わりがない。

 それよりも現場において一体化を検討してほしい部分というのはいくつかある。その中の最たるものは実務と研究の一体化である。

 これは非常に単純な考え方であって、教育現場の実務に関する研究というのは現状ほぼされていない。誤解があるかもしれないので正しく言語化しておけば実際には教職大学院における部分においてはいくつかは研究が行われている。実は書かれているレポートの数についてもそう少ないわけでもない。カリキュラムマネジメントや研修のあり方に関するレポートなどは大学の紀要に掲載されていることもあるのでさらっと目を通すこともあるのだがこれが壊滅的に悪い文章なのである。

 日記指導をしていて一番困る文章は、やったこと、つまり事実を時系列で順番に書くことです。朝起きてこれをしました。次にこれをしました。これが終わったらちょっとこれをしてまたこれをしました。お昼になったのでご飯を食べて・・・楽しかったです。
 何の返事を書けばいいんだよ?と思うことしばしばです。
 まあそれでもプロなんで、もう少しここに絞って書きましょうとかここが楽しかったんだねとか書き加えて返事らしくしていくのですが、その作業は相当苦しいし時間も余計にかかります。

 教職大学院にいく教員の文章というのは、恐ろしいぐらいにこれと同じなんですよね。事実だけ羅列した文章を読み終わった後の徒労感を考えたことがあるのかよ。書き手の意図もへったくれもあったもんじゃない。しかもこれが学校の業務をやりながら書かれた文章ではなくて、きちんとサボりながら、しかもそのサボりが正当化されながら書かれた文章であることをちゃんと脳内で補完しながら読むと更に怒りがマシマシです。落書き以下かよ。それらは印刷費の無駄です。教職大学院は国公立の教員養成系への経営救済措置も兼ねているので、より話は深刻です。国費と授業料を無駄に捨てているわけです。しかも本来学部生へまわされるべきリソースやチャンスまでふんだんに使って未来がない人間のために相場を無視したバカ高い印刷費を遣うわけですからこれはもう害悪です。

 問題はこれらはなんの役にも立たないところなんです。いささかも現場への援護射撃になったり、研修の材料になったりすればよいのですが、そうはならない。カドが立たないように無難におさめられた文章は毒にも薬にもなりません。それに引用するような資料的価値でもあれば話は別ですが、大抵パクって引用しまくっているようなものには引用する価値すらありません。そもそも参考文献や引用文献が少なすぎて勉強しているかどうかもアヤシイもんです。

 事実の指摘はこのへんにして、ではどうすれば良いか?これは割りと簡単な話で実務に関してまとめること自体にもう一度きちんと価値付けを行うことです。自分たちの地位を脅かされることを恐れた大学教員は過去に一度実践との対決の道を選びました。いわゆるはい回る経験主義という指摘なのですが、これは斎藤喜博や無着成恭から大村はまにいたるスター実践家、および細々した教員上がりの侵食が既存の教育学研究を破壊するのではないかという恐れを抱いた大学による意図的な潰しだったのではないかと考えています。なぜなら過去に一度ゼロ免課程と2期の教員養成系の新設、いわゆる一県に一つの教員養成○○教育大学という単科大学づくりによって教育学部所属の教員が増えたことは無関係ではないからです。

 正直に言えば、教員と養成系大学というのは一蓮托生の関係です。どちらか一方が倒れればもう一方も潰れます。今の教員不足は教員養成系大学の本質的な凋落と無関係ではありません。
 なぜなら教員養成系大学の本丸は一県一つの国公立大学だからです。しかし現状、重要な就職のパイは私学で特にゴリゴリにテスト対策をする学校にはかないません。推測の域を出ませんが肌感覚上、辞めたり自死したりする教員は大半が私学出身者もしくは通信教育派です。パイが多いので仕方ないと言えばそうですが、こうした出身学校からは特にアフターケアがありません。そもそも教員仲間があんまりいないわけです。

 こうした教員のために実務に関して研究と認め、サークル的な活動をする団体は教育実践上どうしても必要になります。昔は割と身近にあったのですが、今では数も減り、しかも組合だとか、金がかかるとかなんだか変なおまけがつくようになってしまい、若者は皆そうした集団から遠のいてしまいました。
 こうした集団維持のための個を搾り取るような醜悪な集団ではなく、ゆるいつながりのプラットフォームが、しかも格式高い理論的バックボーンを持った大学と現場がWIN-WINの関係を保てるようなプラットフォームがなんとかできないものかと考えるわけです。

 そして実務について言語化したり、検証したりすること自体が意味を持ってくることになれば、それこそ一石二鳥なわけです。
 データとして有用であるばかりでなく、その知見が流動的に現場に還元されさらに研究が進むことになります。日本方学校教育そのものが、そしてそれを支える教員文化が世界的に見て高度な人材養成に耐えうる基盤であることをもっと表していくことが必要ですし、こうした平準化についての研究も進めていく必要があると思います。

 働き方改革とか職域拡大とか残業代支出とかチーム担任とか採用試験前倒しとかではなく、本質的なアプローチとしての実務と研究の一体化を一考願いたいものです。

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