不適切とは何なのか?

 最近一番嫌いな言葉。不適切。
 良いでも悪いでもなく不適切。悪くはないけど不適切。まあ口にするあなたの逃げ口上だよね。そもそもこれは上から目線の言葉。たしなめるための言葉。およそ政治家や役人が口にする言葉ではない。
 こうした職種の人間に許されるのは良いか悪いかのどちらかです。
 我々は子どもに向かって不適切でしたねとは言えない。そんなどっちつかずな言葉を口にするわけにはいかないのです。

 トイレ行かせなくても不適切、口にセロテ貼っても不適切。なぜ不適切か。簡単です。
 こうした教員には正当な理由があったからです。しかし教員という職種の辛いところ。たとえ正当な理由が有ったところでダメなことはダメだということです。
 
 ここで問題。この正当な理由は誰によって消化されるのでしょう。やり方がマズかった。それは分かります。しかしただ一方的に責任を負わされるだけでは問題の解決にはならないということです。正当な理由の行き場がありません。実はこんなことが許される度に、成仏しなかった正当な理由は怨霊となって教育現場を呪っていくことになります。
 
 こんな仕事やってられるかっ…となるわけです。不適切事案を成仏させられない教育行政には存在価値がありません。あやまれといっているわけではなく、正当な理由の行き先を不適切という小手先の言い方だけでうやむやにするなといいたいだけです。スケープゴートが良い効果をもたらすわけがないからです。彼らのごまかしが通用し続けるわけがない。

 今の教育行政の判断はどこを切っても誰にも納得ができないことばかりです。それはその場限りのごまかしで結論を先延ばしにしているだけだからです。だれかがどこかで責任をとることでしか成仏は不可能です。たとえ日本人が忘れやすくとも。

 おかしな忖度によって、変な責任回避のために不適切で済ましていることに、というかそういう回避の仕方を覚えてしまってお手軽に問題の本質から目を背けようとするその態度に怒りすら覚えるわけです。

 なぜ本質から目を逸らしていると言えるのか、呪われるのか?
 簡単な話です。私も不適切と指摘されたことがありますが、そう言われても何をどうすれば良いかわからないからです。その行為をやめればいいか?いやそうではないと学校管理職はのたまいます。やり方を変えろと言います。いやいや考えて選択した結果に対して何もしない(何もできない)人間がそのやり方が適切ではないというのは後出しジャンケンの最たるものです。不適切には先手が打てないという弱点があります。後出しジャンケンはルール違反です。法律にも違反していなければ、元々あった決まりや慣習からも逸脱していません。何なら今学校現場にいる先人たち、主に学校管理職たちはその不適切行為のほとんどを行なっている立場です。
 私も何人かの学校管理職や関西私学の理事クラスの人間の不適切行為を目にしてきました。その中にはターゲットが私だったパワハラ・セクハラもあります。

 結局不適切は他者を攻撃して晒し者するためだけの言葉です。
 使用価値はありません。さらに許せないのはそこに行政権力が噛んでいるところです。行政権力をカサに着てはいるものの誰もそのことに責任を負うつもりがない。
 何でもかんでも簡単に不適切と言って葬り去る姿勢に対して、ここに異議を申し立てておかなければ後顧に憂いを残すことになります。

 その問題が本当に対応すべき案件ならば、不適切などという簡便な済ませ方をするのではなく、徹底的に話し合えばよろしい。その対話の先には有益な知見が待っているからです。それが主体的・対話的ということではないのか?
 やはり教育行政組織は言ってることとやってることは別の組織なのか?そんなのうまくいく訳ないじゃん。
 
 やっぱり教育委員会制度は学校組織よりも硬直した組織だよ。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?