インハンド 第10話 善意から生まれた悲劇
あらすじ(ネタバレ有り)
休暇を取り、地元の栃木県相羽村に帰省する。なぜか紐倉一緒に。おそらく紐倉、孤高の天才を気取っていながら、寂しがりやのかまってちゃんなのでしょう(笑)高家の実家に着くと、自分の実家のように和み、当然のように冷蔵庫を開けたり、高家母とも完全に打ち解け、女の顔を見せる母に突っ込む高家だった。
相羽村は、 「BSL4」という高度感染症対策施設の建設予定地となっており、その視察に来たのが紐倉の本当の目的であり、この地に元上司だった福山も来ていた。建設予定地の廃校になった小学校に行くと、「この間の返事を聞かせてくれ」と言われると、その誘いを断る紐倉。その理由は、
「今僕の周りには放っておけに相生き物が沢山いる。中でも人間が一番手がかかる」
と。紐倉は、息子の新太にこそ、継がせるべきだというが、「あいつには務まらない」と答える。そして、紐倉には、福山が何か急いでいるように見えた。その帰り側、現地調査に来た牧野と会い、そこで血を吐いたコウモリの死骸を発見し、嫌な予感がよぎる紐倉だった。
前話でお世話になっていた陽子先生がいた相羽病院に顔を出した高家が、まだ帰れそうにないというメッセージを伝えて帰ろうとするが、医師が一人しかいないあまりの忙しさに、医者として手伝う高家。そこで、好きだった女友達の父が病院にやってくる。風の症状で、薬を出して帰すが、帰りのバスで血を吐いて倒れ、その症状に「エボラ」の疑いを持つ紐倉だった。アジアではあり得ないエボラ出血熱ですが、アジアではコウモリが感染したという発見があったことと、入谷のレポートから、入谷が持ち帰ったエボラウイルスの可能性を感じる。
血液サンプルを調査に出し、感染者の接触者を割り出し、病院にいる人を隔離するように指示を出すが、「確証がないのにそんなことはできない」と高家が言うと、「地獄を見たいのか」と、5年前の悲劇を見た紐倉は強く言うと、高家と牧野は隔離の為に動き出す。
バスにいた感染者は、既に感染症状が出ている中で生活に戻り、感染者が広がり始めていた。相羽病院唯一の医師も感染しており、中には記者もおり、厚労大臣も参加したBSL4の記者会見場で、感染した記者が血を吐いて倒れてしまい、やって来た紐倉がエボラだと言うと、居合わせた福山もエボラだろうと認め、場は混乱し、既に感染した人も吐血するなど、パンデミックが起こり始める。異常に気付いた紐倉は福山に詰め寄ると、入谷が持ち帰ったエボラウイルスだと白状する。息子のアラタを後継者にしようとしていたが、福山にとってもBSL4建設は長年の夢であり、政治に迎合する福山の姿に、新太は見損なって出て行ってしまう。新太は独自にワクチン開発をしていたが、それによって、感染したと予想していた。
相羽村を封鎖するか、政府で会議が行われていたが、現場を目撃していた厚労大臣が、封鎖すべきだと強く推し、封鎖が決定する。これは、相羽村を見殺しにするということですが、感染症対策としては、正しい決断です。ただ、その裏で苦しみ犠牲になる人がいるのもまた事実。仕方ないとは言え、正しい判断でも不幸になる人もいることを忘れてはいけないですね。
牧野は急いで帰ろうとするが、紐倉は「僕は残るよ。5年前のけじめをつけなきゃいけない。これは僕たちが蒔いた種なんだ。」と言う。「だったら私も残る」と牧野はいうが、「君は外にいてくれ。君にしかできないことが絶対ある。心配するな、僕は天才だ。」と言い、牧野を見送る紐倉。
政府はエボラ感染と相羽村を封鎖する会見をする。病院では、エボラ感染者がそのニュースで、自分がエボラに感染したと知り、絶望する。高家の友達が、新太の研究に関わっていたことを知った紐倉は、福山とともに新太がいる工場に行くと、科学界のジョブズを目指していた研究員が血を吐いて死んでいた。
これはまだ、ほんの始まりに過ぎなかったーーー
善意から生まれた悲劇
相羽村で始まってしまったエボラ感染は、元はと言えば、5年前、タイで起こった、米軍が開発した新型エボラウイルスが飛行機事故によって漏れ、起こってしまった悲劇が発端となります。これは、まさに悪意によって引き起こされた悲劇だと言えますが、その悪意から生まれた善意が、入谷による研究でした。入谷は、研究中にエボラに感染し、米軍に命を狙われたことで、紐倉を守って自ら命を絶ちました。入谷の研究を裏で引き継いでいた福山だったが、息子の新太を後継者にする為にも、秘密裏に研究していたことを教え、より純粋な科学者だった新太は、父の政治に迎合する姿に呆れて、個人で研究をします。これは、入谷同様「善意」だと言えますが、結果的にはその「善意」によって、ウイルスが漏れ、新たな悲劇が生まれてしまいました。つまり、入谷、福山、新太の善意の連鎖によって、悲劇を生み出しました。
元々、入谷の善意がなければ、今回の悲劇はありませんでした。そもそもエボラウイルスを作らなければ、5年前の悲劇も起こることはありませんでした。入谷の善意は軍の悪意から生まれましたが、善意から生まれる悲劇や悪意もあるのです。
善と悪は表裏一体だからこそ、善意から生まれる悪意があり、悪意から生まれる善意があります。悲劇や悪意が生まれたからと行って、入谷や新太の善意を責められるでしょうか?
責められはしませんが、だからこそ「善意」は厄介なのです。「悪意」であれば、倒すなりなんなりすればいいですが、「善意」ほど厄介なものはありません。女性がよく言う、「優し過ぎるのは人を傷つける」のと同じことです。優しいことは責められないけど、優しさによって傷つくことはあります。
善意ほど厄介なものはない
善意から悪意が生まれるのであれば、善意も悪と同義です。そもそも悪があるから善があるとも言えるし、どちらが先というのはないかもしれません。善意の方が良いとか、悪意の方が悪いとも言えないのかもしれません。
何が言いたいかというのは、「善意」は要注意ということです。絶対悪がないように、絶対善もありません。そもそも何が善悪なのか、その基準は時代や地域によって変わり、決まったものはありません。善だから良い、悪だから悪いと、誰かが決めた見方で見てしまうのではなく、自分の価値基準も大事にしなければいけないと思います。
中途半端な正義感や、未熟な善意というのは、余計に問題をこじらせることがあります。事実、5年前に軍が開発した進化したエボラウイルスに対して打つ手はありませんでした。その惨劇を目の当たりにして、どうにかしたいと思うのは当然のことです。紐倉は、「今の自分たちには何もできない」と、一見諦めたように見えますが、現実を受け入れ、感情の奴隷にならないように努めていました。でも、入谷を責めることもできません。紐倉と入谷、どちらが正しいかなんてわかりませんが、感情の奴隷になることや、中途半端な正義感、未熟な善意には気を付けないと、余計に問題をこじらせたり、善意から悲劇が生まれることがあることを忘れないでいたいですね。
高家も最初は、紐倉曰く「安い正義感」「エセヒューマニズム」だと言われてしましたが、己の価値基準を第一にしている紐倉と触れ合い、認めていくことで、自分の価値基準も変わっていきました。そのように、自分にないものを受け入れながら自分にとって一番生きやすい価値観を身につけることが大事なのではないでしょうか。
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