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「小説家になるためには」

 ここを読んでいると「小説の書き方・小説作法」の話が良く書いてある。
 
 学生の人たちは、書き休みなのだろう、友達と書くこと目的とし合宿に行く人もいるみたいだ。多分、一人では、だらだらとしてしまうから、志しを
同じくする人たちで集まり、励まし合って頑張ろうというのであろう。しかし、実際は、書くことは一人で行う孤独な作業である。そのことを覚えておいた方が良いであろう。
 
 ここ「note」に向かって毎日書くという人もいる。
 
 「note」はすごく参加者が多く、参加者のことを、「ブロガー」ではなく「ノーター」というそうだ。
 
 作品をここに出せば、少なくともその良し悪しはわかる。
 なかなか工夫したものだなと思った。
 
 後、高額なお金を支払い「小説教室」へ参加する人がいる。
 何か、受験勉強のようだが、緊張感があり、最低限の書くときのお約束事は学んでこれると思う。参加費用は、だいたい6万円から10万円である。お金に余裕がある人しか参加できないのが難点だ。

 彼らの共通する目的は、「作家になりたい」ということだ。
 
 世の中、いろいろな仕事があるのに、わざわざ、どやってなったらよいのか具体的なことが決められていない「作家になりたい」のである。
 
 例えば、医師になりたいのであれば、医学部を受験し、医師国家試験に合格することだ、その後、お世話になった大学病院が指定するところで研修医をすることである。
 
 しかし、このような明確な道のりが敷かれていないのが、「作家への道である。
 世の中に現存する「作家」の数は少ない。異常な高倍率になると思う。

  わたしは、もちろん、小説家になりたいとは思わない。生計を立てるのが芸能人より大変だろう。
 
 それに「小説家」は「自営業」ではなく「自由業」だ。芸術家とかが「自由業」になる。将棋の棋士は「自由業だ」、藤井君の様に勝っていれば年収で賞金を入れ約2億円、負けたり、連続で負けたりしてタイトル戦に出れなければ、生活は己ずつ苦しくなり、「将棋教室」でも開くことになるだろう。
 わたしは、趣味で「小説の書き方」を勉強いている。

 書斎で、ただ一人、10冊近い小説の書き方に囲まれながらメモを取りながら読む。孤独な作業である。
 
 学ばないとどういう小説が良いのか、世間でいうよい小説を書くにはどうしたら良いのか?わからないこともある。
 
 それと同時に、落ちるのはわかっているが、目的意識をもって書き方を学ぶために、「群像」「すばる」「文學界」などに原稿を出してみようと思う。通れば、その晩の夕飯は、豪勢にしてお祭り騒ぎである。

 今の人がなぜ、一人で孤独に読むことを中心にして「小説の書き方」を学ばないのだろうか?不思議である。多分、読書習慣がないのだろう。それと、読書はゲームをする感覚で、自分が好きな本なら読むが、それ以外は読む習慣がないのだと思う。

 こんなことで、「作家」になれるのか非常に疑わしい。
 語彙がない人が多い。語彙はその人の文学空間を作る。語彙が多い人ほど広く深い文学空間ができる。
 今の若い人の文学空間では、メダカを一匹飼うのがやっとであろう。

 最近、ここ「note」の「詩を読むように」している。
 
 ここでも語彙の問題が上がってくるだろう。
 
 そのことばをきちんと理解して使っているのか疑問だ。
 
 また、普段我々が使わない難しい抽象度の高い言葉を羅列してある文章があるが、どうなのだろうか?全く意味が分からない。不適切なことばが並んでいるだけで、本人も分かっていないだろう。
 
 そういう「傾向」が強い。
 
 わたしは、コメント欄で質問したことがある。「比喩と書いてあるがこの場合は、比喩より、暗示的・暗にのほうがよいのではないかと?」と。
 
 そうしたら、筆者より「笑っていますね」と返事が来たが、「笑っている」のではなく「馬鹿にしている」のである。
 

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