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世田谷区歴史探訪③『豪徳寺』編

今回は『世田谷区歴史探訪』の記事、第3弾です。

世田谷区歴史探訪①〜②のリンクです。

記事①=
『東急世田谷線 三軒茶屋駅』⇨『世田谷駅』⇨『世田谷代官屋敷』⇨『長崎ちゃんぽん』までを紹介。

記事②=
『東急世田谷線 松陰神社前駅』⇨『松陰神社』⇨『宮の坂駅』
までを紹介しました。

今回は、『東急世田谷線 宮の坂駅』から『豪徳寺』へ向かってみようと思います。

⑧『東急世田谷線 宮の坂駅』と『小田急線 豪徳寺駅』

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前回②の記事で少し紹介した『東急世田谷線 宮の坂駅』と、

この近くにある、

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『小田急線 豪徳寺駅』の距離的な比較をしてみようと思います。

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『宮の坂駅』『豪徳寺駅』間は、徒歩約10分の距離。
また駅名から、史跡『豪徳寺』へ向かう際、『小田急線 豪徳寺駅』を利用している人も多いと思いますが、実は地図を見てもわかるように、
『東急世田谷線 宮の坂駅』の方が、『豪徳寺』に近いんです。

もちろん『小田急線 豪徳寺駅』の名前は、
この辺りの地名『世田谷区豪徳寺1丁目、2丁目』
全体を指しているものと思われます。

また、『宮の坂駅』⇨『豪徳寺駅』区間を、徒歩約10分と書きましたが、

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世田谷線『宮の坂駅』の次の東急世田谷線『山下駅』は、『小田急線 豪徳寺駅』に隣接していて、

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『山下駅』出口より約50mの距離に、『豪徳寺駅』があり、
徒歩約2分で乗り換えが可能です。

・東急世田谷線各駅 乗り換え案内

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要するに、
実は『東急世田谷線 宮の坂駅』は、『小田急線 豪徳寺駅』よりも『豪徳寺』に近い。

そして、『宮の坂駅』→『大渓山 豪徳寺』へ向かいます。

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『宮の坂駅』〜『豪徳寺』間は、徒歩約5分の距離。

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その経路は、『ボロ市通り』『松陰神社通り商店街』とも違って、普通の下町の住宅街です。

⑨『大渓山 豪徳寺』

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『豪徳寺』山門

『大渓山 豪徳寺』公式サイト

・『豪徳寺』歴史的沿革

歴史的に豪徳寺付近は、古来、中世の武蔵吉良氏が居館としていた『世田谷城』の主要部。

1480年 世田谷城主『吉良政忠』が、先代『吉良頼高』の娘で、政忠にとって伯母である『弘徳院』のために『弘徳院』と称する庵を結んだ。
当初は臨済宗に属していた。
1584年 曹洞宗に転じた。
1590年 『世田谷城』は、小田原征伐で廃城となった。

以降、『弘徳院』は廃れていた。

1633年 彦根藩主『井伊直孝』がこの寺院を、井伊家の菩提寺として伽藍を創建し、整備した。
直孝の戒名=「久昌院殿『豪徳』天英居士」から、寺号『豪徳寺』となった。
2006年 猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立。

⑨ー1.『豪徳寺』境内案内

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『豪徳寺』山門からの境内参道

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『豪徳寺境内案内図』

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『三重塔』

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『仏殿』

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『法堂』

⑨ー2.『豪徳寺招き猫伝説』

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『招福猫児(まねきねこ)』

・『豪徳寺と招き猫』について

はじまりは、一匹の猫が、鷹狩り帰りの殿様を、寺へ招いたことから。

ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りのお殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされた。
そのため殿様は、寺に立ち寄ることにした。
寺内で過ごしていると、突然雷が鳴り、雨が降りはじめた。
殿様は、雷雨を避けられた上に、寺の和尚との話も楽しめた。
その幸運にいたく感動したという。
その殿様こそが、彦根藩主『井伊直孝』だった。
以後、『豪徳寺』は、直孝に支援されることになった。
1633年 『豪徳寺』は再興した。
後に『井伊家御菩提所』とした。

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『招福猫児が見守る招福殿』

その後、豪徳寺では、福を招いた猫を『招福猫児(まねきねこ)』と呼ぶようになった。
そして、『招福猫児』をお祀りする『招福殿』が寺内に建てられた。
『招福殿』には、
・家内安全
・商売繁盛
・開運招福

を願うたくさんの参詣者が訪れている。
堂内には『招福観音菩薩立像』が安置されている。

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画像左端の張り紙にあるように、残念ながら、
※招福殿は2022年4月頃まで改修工事中です。

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以前の『招猫殿』※画像は豪徳寺公式サイトより

『招猫殿』の横には、願いごとが成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。
ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。

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『豪徳寺』社務所受付
ここでは、

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『御朱印』、『絵馬』、『お札』などと一緒に、『招猫殿』に奉納する、『招き猫』も扱っている。

この『招き猫伝説』から、
『豪徳寺』『招き猫発祥の地』ともいわれる。

余談ですが、

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・島根県彦根市のマスコット『ひこにゃん』
『白い招き猫』
と、
井伊軍団のシンボルとも言える『赤備えの兜』を合体させて生まれたキャラクター。
愛称の『ひこにゃん』は、全国より寄せられた1,167点のなかから決定。
また、巷ではひそかに『モチ』という愛称も。

江戸時代 彦根藩の藩主=『井伊家』
1633年 『豪徳寺』を含む世田谷の地(現在の世田谷区の、およそ半分の面積)は、江戸幕府から井伊家に下賜され、彦根藩所領地となっていた。

『ひこにゃん』は、『豪徳寺』に伝わる『招き猫伝説』をモデルにしている。

そして、『ひこにゃん』は、
2007年8月4日 第30回世田谷ふるさと区民祭りに参加。
2007年8月21日 井伊家ゆかりの『豪徳寺』を参拝している。

⑨ー3.『彦根藩主井伊家墓所』

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『井伊家墓所』※画像は豪徳寺内井伊家墓所入り口

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『豪徳寺墓所』には、歴代彦根藩主や正室たちの墓が並んでいる。
2008年 『国史跡』に指定された。

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『井伊直孝公墓所』

・『井伊直孝』= 1590年3月16日 〜 1659年8月16日
上野国白井藩主、近江国彦根藩第2代藩主。
1615年 『大坂夏の陣』にて、『藤堂高虎』と共に先鋒を務める。
そして、敵将『木村重成』『長宗我部盛親』を打ち破り、冬の陣での雪辱を遂げた。
また『徳川秀忠』の命により、大坂城の山里郭に篭っていた『淀殿・豊臣秀頼母子』を包囲し、発砲して自害に追い込むという大任を遂げた。
戦後、5万石を加増され、従四位下侍従へ昇進した。

1632年 2代将軍『徳川秀忠』は臨終に際して『井伊直孝』『松平忠明』を枕元に呼び、
3代将軍『徳川家光』の後見役に任じた。
これが『大老職』のはじまりと言われる。
その後直孝は、家光からも絶大な信頼を得て、徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。
70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導した。

『招き猫伝説』の項で説明した由来により、豪徳寺は後に、『井伊直孝』より寄進を受け、立派に改築されて井伊家の菩提寺とされた。
そして、直孝の法名にちなんで『豪徳寺』と号した。

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『井伊直弼公墓』※豪徳寺山門脇の標識

・『井伊直弼』= 1815年11月29日 〜 1860年3月24日
近江彦根藩第15代藩主。
幕末期の江戸幕府にて『大老』を務めた。
『開国派』として、『日米修好通商条約』に調印。
日本の開国・近代化を断行した。

また『井伊直弼』といえば、
・『安政の大獄』=強権をもって国内の反対勢力を粛清した。
・『桜田門外ノ変』=『安政の大獄』など、日本の開国、近代化の強硬な断行、それらの反動を受けて暗殺された。

この二つの事件で有名です。

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『井伊直弼公墓所』

⑨ー4.『安政の大獄』・『桜田門外ノ変』概要

・時代背景

1853年 黒船来航以降、朝廷、幕府に対外危機の機運が盛り上がる。
『一橋派』=前水戸藩主・徳川斉昭の七男で英明との評判が高い『一橋慶喜』(のちの『徳川慶喜』)を支持し諸藩との協調体制を望む派。
『南紀派』=血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主『徳川慶福(後の徳川家茂)』を推す保守路線。
この2派に分裂し対立した。

・『安政の大獄』

1858年『南紀派』『井伊直弼』が大老となる。
『一橋派』は朝廷も巻き込んで抵抗する。
直弼は、慶福の継嗣決定と、『日米修好通商条約』調印を断行。
1858年〜1859年にかけて水戸藩をはじめとする反対派の処罰を行った。
この反対派の処罰が『安政の大獄』である。

『吉田松陰』『安政の大獄』の中で、老中『間部詮勝』暗殺の計画などを自白し、処刑となった。

・『桜田門外ノ変』

1860年 『井伊直弼』『江戸城』の桜田門外において、『安政の大獄』に対する復讐として、水戸浪士らに暗殺された。
この暗殺事件が『桜田門外の変』と呼ばれる。

『花の生涯』上・下巻 船橋聖一

作家『船橋聖一』による、幕末の大老・彦根藩主『井伊直弼』を主人公に、その波乱の生涯を描いた歴史小説。
たびたび映画・ドラマ・舞台化されている。
1963年 NHK大河ドラマ第1作が『花の生涯』

『井伊直弼』自身は、『日米修好通商条約』調印を断行するなど、『開国派』の要素が強い。

重要なのは、
1.『日米修好通商条約』調印は、天皇の許可を得ず、井伊直弼が勝手に断行したものであった。
2.『日米修好通商条約』は、日本にとって不利な、不平等な条項が多く盛り込まれていた。

当然『攘夷派』は反対します。

『攘夷派』とは本来、
1.外国(外国人)が嫌い
2.日本人が世界最高の民族だと思っている。
3.天皇の存在や、天皇を敬うことをもっとも尊ぶ。

なので『攘夷派』の言い分は、条約調印に際し天皇を無視し、戦争をすれば日本がアメリカに負けるわけがないのに、なぜアメリカに屈するような条約を結ぶのか?

そう言った中で『開国派』『井伊直弼』は、しっかり現実が見えていた。

水戸前藩主『徳川斉昭』ほか数名の『攘夷派』藩主たちは、直弼に対し、正式に抗議した。

『井伊直弼』は彼らに対し、
『定められた予定日以外の日に、勝手に江戸城に来た』という理由で『謹慎処分』を命じたのが、『安政の大獄』の始まり。
『不時登城』=『定められた日以外に、勝手に江戸城に登城』は、実際に違法行為に当たる。

しかし、『安政の大獄』は、『井伊直弼』の行き過ぎた弾圧政治にも見える。

ここで見逃せないのが、『戊午の密勅』

・『戊午の密勅』と、その内容

『日米修好通商条約』の無勅許調印を受け、
1858年9月14日 『孝明天皇』『水戸藩』に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件。

・『戊午の密勅』内容要約

1.「なぜ、朝廷の命令もなく『日米修好通商条約』を結んだのか、説明せよ」
2.「徳川御三家と全国の藩は、幕府に協力して公武合体を実現し、幕府は諸外国を打ち払うように、政治改革をせよ」
3.「上の3つの内容を、『水戸藩』が全国の藩に伝えよ」

朝廷が下した『戊午の密勅』は、『幕府』ではなく『水戸藩』へ下された。
『戊午の密勅』には直接『倒幕せよ』とは書かれていない。
しかし、この密勅が『水戸藩』に出されたということは、
暗に『水戸藩が幕府に代わって』、全国諸藩に号令をかけよと促しているとも取れる。

『日米修好通商条約』を朝廷の許可なしで、勝手に調印したことについて、
直弼は、実際には、側役の指摘を素直に受け入れて、
「大老を辞するしかない」とまで思い詰めていた。

しかし『孝明天皇』は、勅許なき条約に対して、幕府に苦言を呈するには止まらなかった。
幕府への不信感から水戸藩に直接密勅を下した。
これは明らかに統治体制から外れた行為であった。

大老『井伊直弼』および『幕府』全体が、顔を潰された。
直弼は「これは水戸の策略に違いない」と思い込んだ。
天皇から水戸藩に直接命が下されたのだから、経緯を踏まえれば、そう考えるのも当然と言える。

天皇からの密勅なので、幕府へのクーデターへの発展も懸念されるし、
顔を潰されただけでは済まされない事態であった。

こうして直弼は、
「密勅にかかわった者を徹底的に処罰すべし」
と、『安政の大獄』に踏み切った。
・一橋慶喜を推した「一橋派」の人々
・尊王攘夷派の大名、公卿、志士たち

これらの人々が徹底的に弾圧された。
その結果、8人が死罪となり、100人以上が処罰されている。

いわば「『安政の大獄』は、孝明天皇の暴走が引き金となった」といっても過言ではない。
幕府の弾圧によって、水戸藩の『徳川斉昭』は蟄居。
その息子である、のちの『徳川慶喜』までもが、謹慎処分を科せられている。

『安政の大獄』は、『不時登城』に対する処罰で始まった。
その後『戊午の密勅』に関わった公家、諸藩の有力藩士達を処罰した。

しかし井伊直弼のほぼ独断による『弾圧的なやり方』にも、まだ批判はある。

⑨ー5.『井伊直弼』と『吉田松陰』

『井伊直弼』『吉田松陰』『幕末』という同時代の人物。
そしてどちらも鎖国を行なっていた徳川幕府の治世において、『開国派』だった。

それなのに『吉田松陰』は同じ開国派の『井伊直弼』に処刑された形になる。

そして『井伊直弼』『吉田松陰』は、おそらく一面識もない。

・『井伊直弼』=名門井伊家の彦根藩主であり、時の大老
・『吉田松陰』=長州萩の下級武家出身の素行不良者(当時は政治犯という認識ですらない)

小浜藩士『梅田雲浜』=(尊皇攘夷派の急先鋒的人物)が、以前萩に滞在した際、松陰と面会していた。
幕府は松陰に『梅田雲浜』との間で、萩滞在時に交わした会話などを事情聴取するだけのつもりだった。

松陰はそこで、聞かれてもいない、老中『間部詮勝』暗殺計画について自白した。
※この辺の『吉田松陰』の心理については、多くの人に理解されない。
結果、松陰は死罪となる。

ただし、こんな逸話がある。

『井伊直弼』は世子として、長年、『部屋住み』の身分だった。
1850年 直弼が家督を継いで彦根藩主就任となる。
藩主就任後、直弼が彦根に帰国した際に、まだ自分が何も期待に応えていないのに、領民が総出で温かく出迎えてくれた。
このことを恥じて直弼が詠んだ歌
「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに」

『吉田松陰』はのちに、兄の『杉梅太郎』宛書簡に、この歌を引用して記した。
そして松陰は、直弼を領民に対する哀れみの心を持った領主であると賛辞を贈った。

・2人の死後の奇妙な因縁

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『豪徳寺』→『松陰神社』

そして世田谷区は、
江戸時代は武蔵国多摩郡、荏原郡と呼ばれ、この地は江戸の御府内ではなかった。
しかし、幕末には見逃せない二人の人物、
・『井伊直弼』
・『吉田松陰』

と大変ゆかりのある土地というわけです。

しかも、
『井伊直弼』
の墓のある『豪徳寺』と、
『吉田松陰』を祀った『松陰神社』は、非常に近くにあり、
・徒歩約17分
・距離およそ1.1km

という距離にあります。

⑩『小田急線 豪徳寺駅』→『新宿駅』

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『新宿 高層ビル群』

余談ではありますが、今回宿泊した『宿』が『新宿』の近くにあるため、
帰りは『東急世田谷線』を利用せず、『小田急線 豪徳寺駅』へ向かいました。

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『小田急線 豪徳寺駅』改札

『小田急線』なら、『新宿駅』へ直通なので。

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『豪徳寺駅』→『新宿駅』まで、9駅区間 乗車時間17分。

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『JR新宿駅』ホーム ※翌日に撮ったJR中央線・総武線ホーム

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新宿の宿からの景色

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ついでに以前に撮影した
渋谷のMIYASHTAパークからの景色

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