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増田邯鄲「パンド・羅・生の鐘」

 夕暮れどきのことである。女が、塔に吸い寄せられるように、街道のはずれを歩いていた。脂ぎった髪を垂れ下げ、土埃にまみれた履物を引きずっている。小刻みに吐き出される無声の呼気が、整えられていない前髪をふわりと跳ね上げる。
「ぁ……」
 女が地面に足をとられた。躓きかけた女の発した、僅かな有声の音が空気を震わせる。周囲に波紋が広がる。虫、小動物、鳥。音を感知するあらゆる種々が彼女の側を遠ざかっていく。
「うぅ!」
 女は苛立ちに足を踏み鳴らし、右手にある木々に向かって獣のような声を上げた。声を中心にして、道が割れるように種々が逃げる。烏が豆鉄砲でも食らったかのように、木立から飛び去った。
 烏が夕方の空に滲んでいくのを見送ると、女は喉を震わせないよう努めて、世界を呪うため息を吐き、半端に伸びた爪でうなじの汗疹を掻いた。
 女のはるか頭上、鐘が鳴る。
 完璧に調子の整った鐘の音が世界を包む。飛び去った烏が遠くの空から、他の鳥たちが木々の狭間から、小動物たちが木の根元から、土の中から、虫たちが草むらから、鐘の調子に合わせて音を奏でる。野犬の遠吠えが重なる。
 世界が律に向かって協和していく――たった一人、女を除いて。
 そして、残響が去っていく。追いかけるように、一つ一つの声も消えていく。束の間の静寂が薫ったあと、生けるものは律に従って、再び動き始める。
「――っ‼」
 女は声にならない叫びを上げた。音を受けた生物たちが、女を非難するように調子を崩していく。烏と野犬が、共に威嚇の声を上げた。女は座り込み、自らの両の手で首を絞め上げた。身体をめいっぱい震わせ、しかし喉は鳴らさぬように、正しい世界からの攻撃をやり過ごす。ただ無声の息を吐く。
 夕日が地平線にかかり、辺りが急速に暗くなり始めた頃、女はようやく立ち上がった。
 女は憎悪に歯を鳴らしながら、薄闇の中に聳え立つ塔を睨みつけ、再び歩き出した。
 
 すっかり日が暮れた頃、半月の明かりにぬるりと影を縁取られた塔の下へ、女は辿り着いた。塔は、艶のない、けれど表面を整えられた、闇夜にも仄かに浮かび上がって見える白い石でできていた。遠くから見れば細長く空を切り裂いていた様も、間近に寄れば、根本は一般的な家屋が比べものにならないほど大きい。女は自らを呪ってきた存在に近づきながらも、そのあまりの無機質さと美しさに呆気にとられ、冷たい外壁を撫でた。女は塔の壁を伝いながら、その円周を確かめるように周囲を回っていく。しばらく外周に沿って歩くと、塔の向こうに、建造物の影が現れた。
 毎日、毎日、三度鳴る塔だ。管理をする人間がいて何がおかしい。女は間近に見た塔に圧倒され、そんな初歩的なことに、建物の、小屋の影を見るまで気付かなかった。
 私を呪う塔を管理するもの――私を呪う存在。
 女は小屋に押し入った。小屋の中は、狭い窓から射し込む月灯りだけが照らしている。女は暗闇に目を慣らしながら、慎重に室内を見回していく。ふと、闇の中に、月灯りを反射する、青白いなにかが浮かび上がった。
「あぁっ!」
 女は慄いて声を上げ、後ろに飛び退く。そして、壁に身体をぶつけ、再び呻き声を上げる。
 青白いものの上部には、ぬるりと光を反射する二つの穴が――女を見つめる瞳があった。
「お前が私を呪うものか」
 女は、瞳に向かって、その持ち主に向かって、恨みの言葉を投げかける。しかし、瞳はただ瞬き、姿を消しては現れてを繰り返すのみで、その下にある一文字の口は、女の言葉に応えようとしない。
「お前が! 私を呪うものか‼」
 得体のしれない顔への恐怖に身を震わせながらも、女は、積年の恨みを調子の外れた声に乗せ、瞳のもとへにじり寄っていく。夜目の利き始めた女が見たのは、驚きと恐怖に目を潤ませる、齢十五にも満たぬような少年だった。
 ――あぅ……あっ。
 無理やり文字にするのならこうなるだろう。少年は不器用な身振りを交えながら、人のものとは思えぬほどに美しい声で、全く無意味な音を奏でた。
「お前が……私を……」
 少年から発せられた美しい〝声〟に毒気を抜かれた女が、再び弱々しく問いかける。
 ――あい……。
 もう一度、意味をなさない、鈴鳴りのような音が響く。少年は聾だった。
「……お前は、私を憎まないのか?」
 問いかける女に、少年は応えない。
「この声を聞いても、私の許を去らないのかい?」
 やはり、少年は応えない。
 女はその場に膝から崩れ、涙を流した。少年は驚いた様子で、しかし警戒を解かずに、女の様子を眺めている。女は薄汚れた顔をぐしゃぐしゃに歪め咽び泣いた。これまでの生で抑圧されてきたものを絞り出すように、思い切り泣き叫んだ。少年は理由もわからず、ただ女を見つめていた。
「お前は私の敵じゃあない……私はお前の敵じゃあない……ね」
 女は乱暴に涙を拭うと、着物を開けさせ、少年に肌を曝した。少年は唾を呑み、月灯りに青白く照らされる女の素肌を、食い入るように見つめた。
「触れてみるかい?」
 女が少年の手を取り、自らの身体に触れさせる。少年の手に熱が籠もる。
「触れてくれるのかい?」
 少年の手に力が込められる。彼の鼻息が荒くなる。
 二人は、月が高く上って小屋の中を照らさなくなる夜半まで、獣のように交わった。

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