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エッセイ

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わたしの住む家

わたしの住む家

「居住空間は大事だよ」と友人が言ったとき、かつてわたしは心の中で反発した。当時、わたしは家賃1万円代のとても古い公営団地に住んでいた。風呂はバランス釜と呼ばれる高度経済成長期に普及した古いもので、浴槽が立方体のため足を伸ばすことはできない。壁がコンクリートでできていて冬はひどく冷えるので、発泡スチロールを壁に立てて寒さをしのいでいた。お湯は外気の影響を受けるので、冬は浴槽にお湯が溜まるのに40分か

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「ふたり」の呼び名

 恋愛において、ふたりの関係性をどうラベリングするか、どう名付けて第三者にひらくか、ということは時にむずかしい。「別に第三者にふたりの関係性を説明する義務はないよ」と言う人もいるかもしれないけれど、相手をだれかに紹介する場面は往々にして訪れる。そのときに関係性をどう呼称するだろうか。

 「彼氏/彼女です」「恋人です」「パートナーです」。こういった表現を躊躇なく用いる人が多数かもしれないが、わたし

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地方の田舎町から東京へ

 東京へ引っ越すことにした。「引っ越すかもしれない」という可能性を携えて調べはじめたら、トントン拍子に事が運んで条件が整い、実際に引っ越すことになった。わたしはいま地元である九州のとある田舎町に暮らして12年になる。ちょうど干支が一周するほどの期間、地元にいたことになる。それ以前は大阪にいた。大学進学と同時に転地して、しかし当時は心身を病んでいて、休学したり留年したりして、6年間在籍した。大阪とい

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ほぐれ

ほぐれ

「弱さで惹かれ合ったっていいのかな」と問うわたしに、「ぜんぜんいいでしょ」と恋人は言った。

春雨と梅雨の合間の爽やかな季節に交際をはじめた彼は不思議な人で、彼と深い話をするたびにわたしは少しずつこころがほぐれていくのを感じている。湯船に浸かったら血液の流れがよくなるように、マッサージをしてもらったらからだがほぐれていくように、彼以前と彼以後のわたしは、こころのやわらかさが違うのだ。

今わたしは

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わたしの大事な姉と「うみ」のこと

わたしの大事な姉と「うみ」のこと

 海といえば、思い出すことがある。
 わたしがまだ幼かったころ、母が聞かせてくれた話だ。

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完璧主義とずぼらとの間で

 「もえさんは完璧主義なところがありますよね」と友人が言った。わたしの仕事の一つである、定時制高校での授業について話していたときのことだ。先輩教師がスライドを準備してくれるので、さほど準備はいらない、だけれど生徒にとって分かりやすい授業はできていないと思うとわたしが言ったら、「でも授業はできているんでしょう」と冒頭の言葉をかけられた。

 たしかにわたしには完璧主義な側面がある。学生時代、授業の理

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根を張る

根を張る

 夏を前にして、オクラの苗を植えた。地元の市場にあった、まだ丈が5センチくらいのか弱い苗だ。いざ畑へ赴き、植える場所を決めて土を掘り、育苗ポットから出すと、土がサラサラとこぼれ、根がむき出しになってしまった。失敗してみて分かったけれど、土を掘ってその中に育苗ポットを置き、ポットを裂いて取り去ったらよかったのだろう。結局苗をまっすぐ植えることは叶わず、たよりなげに傾いた苗が畑の土に植わっていた。「こ

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分かれ道の先に

分かれ道の先に

 春。出会いと別れの季節を、きみはどんな気持ちで過ごしているだろうか。もしかしたら、別れとまではいかないまでも誰かと物理的に少し距離があいてしまって、心のどこかにすきま風が吹きつづけているような、やるせない思いを抱えているかもしれない。実はわたしも4月の初めごろ、そういった状態にあった。

 昨年から友人たちと共に映画の上映会を行うプロジェクトを進めてきた。友人の一人が「やりたい」と言ったことをき

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風

 さみしい時、人はどうするのだろう。だれか他者と話をすることを願うだろうか。わたしが心の底からさみしい時は、人を求めてもやっぱりさみしい。そういう時は一人で本を読んだり文章を書いたりするしかないと思ってきたけれど、もしかしたらほかの方法もあったのかもしれない。

 あるよく晴れた春先の午後、わたしは両側の窓を開けた車の中で一人ぼんやりとしていた。日差しがフロントガラス越しに暖かく降り注ぎ、外からは

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散歩

散歩

目的地の定まらない散歩が苦手だった。

どこを目指したらいいのか、どの道を歩けばいいのか、見当がつかないと心もとなくなってしまう。そういう自分がつまらなく思えてしまっていた。仮に「ここまで行こう」と自分で設定できればいいのだけれど、それができない日はいつもすぐに引き返して自宅へ戻っていた。だけれど、だからこそ、散歩には憧れていた。

好きな本の著者プロフィールに「念入りな散歩」という言葉があるのを

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母のロングコート

 正月、実家を訪れていた。うちの実家はその造りや立地のせいか、全体がひどく冷える。宮崎はコートなしで過ごせる暖かい日が続いているというのに、実家に入った途端、上着なしでは過ごせないような寒さを感じ、母の上着を借りた。それは、私が幼い頃から母が着ていた茶色の薄手のコートで、当時、母に連れられて誰かと会うと、その裾に隠れてもじもじと人見知りしていたことや、その頃私が母に対して抱いていた気持ちを鮮やかに

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雨の日-2022年5月30日の日記

雨の日-2022年5月30日の日記

目を覚ますと、外は雨だった。雨の日は、眠たい。世界は静かで、空気が湿っていて、私と外の世界の間にある膜が膨張しているように感じる。からだは、水中にあるぬめりを持った岩のようだ。再び目を閉じる。鼻が利かない。音はくぐもって聞こえる。ただ、私を包み守ってくれる繭のような膜と、その内側にある私の精神世界を感じる。

昨夜は22時には眠りのなかにいたから、十分な睡眠を取ったはずだ。だけれど、私のからだを、

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