黒木萌|物書き

学び、書き、活動する人|通信制大学で社会福祉士の資格に向けて勉強中|企業・団体の広報手…

黒木萌|物書き

学び、書き、活動する人|通信制大学で社会福祉士の資格に向けて勉強中|企業・団体の広報手伝い|ライター|子育て支援センターの事務|のべおか読書会|一般社団法人ハウリング理事|畑

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    土に呼ばれて 1巡目 2022年2月~2023年1月

    ーー畑をやることにした。 「土と作物の呼吸、風と太陽のにおい、畑を耕しながらあそぶ萌さんと息子さん、ご友人、ご近所さん、ミミズさんたちの声が聴こえてくるような一冊です。」 (友人の紹介より) 2022年の冬から宮崎県延岡市で畑をはじめました。毎月5日にWeb上でエッセイを更新してきて、1年が経ったので1冊のzineにまとめました。
    1,650円
    moe kurogi
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    moe's cook

    "私にとって「食べること」は苦しみを伴うものだ。そんななか、少しでも「食べること」を楽しもうと企画したのが、『moe's cook』だった。” (「あとがき」より) 物を書くことを生業としている著者がイラストにも挑戦した初のzineを刊行しました。 2021年11月から2022年6月までの食の記録と、「食べることについて」のエッセイを収録。 サイズ:A5 ページ数:32ページ(表紙・裏表紙含む)
    1,000円
    moe kurogi

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    土に呼ばれて 1巡目 2022年2月~2023年1月

    ーー畑をやることにした。 「土と作物の呼吸、風と太陽のにおい、畑を耕しながらあそぶ萌さんと息子さん、ご友人、ご近所さん、ミミズさんたちの声が聴こえてくるような一冊です。」 (友人の紹介より) 2022年の冬から宮崎県延岡市で畑をはじめました。毎月5日にWeb上でエッセイを更新してきて、1年が経ったので1冊のzineにまとめました。
    1,650円
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    "私にとって「食べること」は苦しみを伴うものだ。そんななか、少しでも「食べること」を楽しもうと企画したのが、『moe's cook』だった。” (「あとがき」より) 物を書くことを生業としている著者がイラストにも挑戦した初のzineを刊行しました。 2021年11月から2022年6月までの食の記録と、「食べることについて」のエッセイを収録。 サイズ:A5 ページ数:32ページ(表紙・裏表紙含む)
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「最低な母親」という烙印-子どもを施設に託すことは、罪か

 「子どもを施設に預けておいて、自分は教育の仕事をするなんて、いったいどういうことだ」  「子どもを施設に預けていることを公表しているのだから、広報の業務はしない方がいい。会社のイメージが悪くなるから」  「『子どもが幸せになるためには、まず親が幸せになるべきだ』なんて、詭弁だ」  これらは、すべてわたしが当時4歳だった息子を児童養護施設に預けていたときにかけられた言葉だ。  友人から目の前で直接言われ、知人からは会社に連絡がいき、顔も覚えていないくらいの関係の大学時代

    • 内藤礼の作品に触れて-2024年9月18日、19日の日記

      内藤礼「生まれておいで 生きておいで」を観に、東京国立博物館へ行った。複数の友人が観に行き、「よかった」というのを聞いていたからだ。わたしにとって初めての内藤礼だった。 はじめに断っておくと、これは内藤礼の作品を礼賛する文章ではない。ただのわたしの備忘録で、しかもとても微妙な、ややもすると否定的な感情も含むものである。それで不快な思いをするのが嫌な人は、この先を読まない方がいいかもしれない。 同展は、会場が3つに分かれ、第1会場である平成館企画展示室、第2会場である本館特

      • 日曜日があるのはいいことだ-2024年9月15日の日記

        日曜日。息子に「ママ、自転車の練習しようよ」と誘われ、近くの公園へ出かける。 自転車は東京へ来てから数日後に買った。子どもの自転車は高価で、わたしのものより1万円ほど高かった。フォルムがとても愛らしくて、色はわたしとお揃いのカーキ。息子の身長だと24インチでもいいそうで、その方が長く乗れはするのだけれど、今の息子の足の長さにピッタリだった22インチにした。 後ろの荷台を支えながら、「後ろに漕ぐんじゃなくて、前に踏み込むんだよ」と伝える。昨日はその違いがわからないようだった

        • 「月の日」-2024年9月14日の日記

          近頃、日常的に詩を読むようになった。詩はいい。わからないからだ。地元の友人が開いている詩話会で読んだ詩も、東京の友人と読む詩も、ひとりで読む詩も、一つとして「わかった」と腑に落ちたものは、いまだかつてない気がする。先日視聴したイベントでの永井玲衣さんの言葉を借りて言うならば、わからないから、世界に奥行きがあることを感じることができる。 繰り返すけれど、詩はいい。わからないから、何度も読み返すことで、表現を、行間を、じっくりと味わうことができる。だからここ数日は読書というと詩

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          2024年9月11日の日記

          永井玲衣さんと寺尾紗穂さんのトークイベント「かけがえのない生の断片の保存」をオンラインで視聴した。さまざまなお話の中で、論文という形式ではこぼれ落ちてしまうものを書いたのが『水中の哲学者たち』という話があって、わたしは仕事や社会的な活動と書くことの間にどこか溝のようなものをずっと感じているのだけれど、仕事でこぼれ落ちてしまうものを言葉にしようという試みが文芸なのかもしれないなと思った。 何より永井さんと寺尾さんの「こぼれおちてしまうものをすくいとる」という態度や試みが尊くて

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          心のオアシス-2024年9月10日の日記

          精神科に通院しはじめてもうどのくらい経つだろうか。大学時代、心の相談室に通っていたのがきっかけだったと思うから、かれこれ15年以上になると思う。大学を卒業して地元に戻り、自分に合う薬が見つかるまでわたし自身も大変だったし、周りの人たちにも心配や気苦労、迷惑をかけることもあっただろう。 発症したのは10代後半だったのにもかかわらず、障害受容に至ったのは20代半ばだったと記憶している。その時の主治医が「過去に原因を探すよりも、今できることは何か考えた方がずっと建設的だ」と言って

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          応答-2024年9月9日の日記

          引っ越して初めて息子が通院する日だった。学校を早退してバスに乗って向かう。降りたところは人情味ある商店街といった感じで、東京へ来る前は「(東京は)人の住むところじゃない」なんて言葉を真に受けたりもしていたけれど、「なんだ、ここにだって人々の生活はあるんだ」という当たり前のことを思う。 住宅街を6分ほど歩くと通院先に到着した。小さなビルの4階にあり、院内は淡いグリーンと白で内装が施されていて、爽やかな気分になる。しかし息子は持ち前の落ち着きのなさを発揮して、椅子をあちこち移動

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          緑に豪雨-2024年9月3日の日記

          聴くのが上手な人は相槌をやたら打つのではなく、むしろ沈黙の使い方がうまい。息子のことでとある機関に相談しているのだけれど、担当の方の聴き方がとても素敵で参考になる。沈黙にわたしの不満が吸収されて静まっていくのを感じた。 大学の勉強を再開した。本来ならば8月中に添削課題を1つ提出したかったのだけれど、引っ越しで落ち着かず、途中のままにしてしまっていた。月火木金はサボることなく課題に取り組むようにしたい。 友人に子育てのことを相談していて、「もえさんはまさに今、福祉の勉強中な

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          転校初日-2024年9月2日の日記

          1日が日曜日だったから、なんだかそんな気がしないけれど、もう9月で今日から2学期。息子は転校先の小学校に初登校する日だ。「ひさしぶりに晴れたね」と話しながら二人で家の前の道に出たら、同じ学校の生徒たちが揃いの校帽を被って集団登校していて、一瞬息子の動きが止まる。間もなく学校へ着くも、転校生たちが集まる応接室に入るのも及び腰。 転校生とその保護者で全校集会のある体育館へ移動すると、空調が効いていて涼しい。にもかかわらず、集会中に3人もの生徒がバタバタと倒れる。夏休みの間不摂生

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          きっと、これからも。-2024年8月16日の日記

          引っ越し作業を進めている。今日は午後から荷造り好きな友人と、高校の同級生が来てくれて、大きな家具の解体などを担ってくれた。電動ドライバーを使ってデスクのネジを抜いている友人の背中をふと見たら、さまざまな工具のイラストがプリントされていて、行動との符合につい声を出して笑ってしまった。理由を伝えると、もう一人の友人はすでに気づいていたらしく、それなのにひと言も発さず心の中で突っ込んでいただろう彼女の人柄を愛おしく思った。 実は午前中、とても美しく豊かな時間を過ごしたのだけれど、

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          おめでとう-2024年8月15日の日記

          大切な人の誕生日は厳かな気持ちになる。青葉市子さんの作品に「おめでとうの唄」という曲があって、これは以前わたしを大切に思ってくれていた人が何かのときに歌ってくれたもので、思い出深い曲だ。もっともわたしはそのときとても眠かったので、なぜ彼がわたしの誕生日でもない日にこの曲を歌ってくれたのかまったく覚えていないのだけれど。短くてシンプルで、それでいて大切な人の健やかな日々を願う祈りが込められたとてもいい曲だから、以来わたしも大切な人の誕生日にはこの曲を聴くようにしている。 一方

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          弔い-2024年8月14日の日記

          数年前まで共に暮らしていた人と会った。彼は会社員時代の恋人で、その会社に在籍する多くの人は、なんらかの病と共に生きていた。 「何人も死んだ」 彼は事もなげに言う。 「そうだろうね」 わたしも大したことじゃないように応える。 レクリエーションではムードメーカーだった先輩は癌になって死んだ。課長まで昇進した人で、わたしがほのかに想いを寄せていた男性は心身を病んで会社を辞めた。わたしの上司だった女性は透析になって辞めた。 彼はとうとうと話し続ける。わたしは淡々と聞く。 ほ

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          生きている-2024年8月13日の日記

          他でもないわたしの限りある時間やエネルギーは、大切なことと大切な人に注ぎたい。ひどく疲れた日でも、日記にはその日見たうつくしいものを書きたいと考えている自分がいる。うつくしいものとはきれいなものではない。清濁併せ吞んだもっと包括的なものがうつくしさだと思う。 安心できる窪みについて昨日書いたけれども、人とかかわることは窪みによりかかることだけでは完結しない。むしろ絶えず摩擦にさらされている。時折、小石に蹴つまづくことになる。 ある人のことをずっと見ている。その人のこれまで

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          夜更かしは幸せの前借り_2024年8月12日の日記

          再び日記を書く。体調のこと、わたしのこと、いま記しておきたいことについて。 永井玲衣『世界の適切な保存』を少しずつ読み進めている。念入りに考え、自分の見ている世界について言葉を紡ぐことは、わたしの志向することに近い。それなのに、こんなにすばらしいエッセイを目の当たりにすると、わたしが新たに書く意味などないのではないかと軽く絶望する。しかしながら、わたしもまた唯一無二であり、わたしが言葉を紡ぐことは、それ自体に価値があり、たとえ価値や意味などなくたって続けてしまう数少ないこと

          夜更かしは幸せの前借り_2024年8月12日の日記

          習作_「律」

           どっと教室が沸く。お調子者の勇樹がまた冗談を言ったのだ。担任の尾崎先生が勇樹をたしなめる。クラスの誰もがそんなことを構いもせずに顔じゅうをくしゃくしゃにして笑っている中で、ただ律だけが、表情を変えずに静かに前を見つめていた。  給食時間終了のチャイムが学校じゅうに鳴り響く。「廊下は歩きましょう~!」という先生の大きな声を背中に受けながら、男子たちが我先にと運動場へ駆けて行く。ほかの生徒たちも次々と席を立っては、教室の隅に集まって、お喋りして過ごしている。律は一人、席に座っ

          「ふたり」の呼び名

           恋愛において、ふたりの関係性をどうラベリングするか、どう名付けて第三者にひらくか、ということは時にむずかしい。「別に第三者にふたりの関係性を説明する義務はないよ」と言う人もいるかもしれないけれど、相手をだれかに紹介する場面は往々にして訪れる。そのときに関係性をどう呼称するだろうか。  「彼氏/彼女です」「恋人です」「パートナーです」。こういった表現を躊躇なく用いる人が多数かもしれないが、わたしの、わたしにとっての恋人は、あるときわたしを「友人」として紹介した。わたしも多く

          「ふたり」の呼び名