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わたしの住む家

「居住空間は大事だよ」と友人が言ったとき、かつてわたしは心の中で反発した。当時、わたしは家賃1万円代のとても古い公営団地に住んでいた。風呂はバランス釜と呼ばれる高度経済成長期に普及した古いもので、浴槽が立方体のため足を伸ばすことはできない。壁がコンクリートでできていて冬はひどく冷えるので、発泡スチロールを壁に立てて寒さをしのいでいた。お湯は外気の影響を受けるので、冬は浴槽にお湯が溜まるのに40分かかった。夏は夏で、熱湯が出てくる。トイレもとても狭い。独立洗面台などあるわけがなかった。

しかし、そこはわたしと息子が元夫と別居した後に苦労してやっと手に入れた「わたしたちの家」で、だから欠点があっても大事に思っていたし、古くても間取りは3Kと、キッチンに6畳の部屋が3部屋もあって、その上風通しがよくて気に入っていた。だから、友人がわたしに言ったわけでもなく別の文脈で冒頭の言葉を述べたとき、「どんな家だって愛すべきところはあって、その側面を手入れして大事にしていくことこそが大事なんだ」と密かに心の中で思ったわけだ。同時に、「わたしにはこれ以上は望めない」「望むと手に入らないことを認めることになるから、それは苦しい」と自分を抑圧していたことも書き添えておこう。

それから1年ほどが経っただろうか、わたしは息子と共に東京へ引っ越すことになり、それに伴い物件探しをすることとなった。もちろんわたしは、浴槽が直方体で足をある程度伸ばすことができ、トイレも適度な広さがあり、独立洗面台のあるところを求めた。東京で3部屋を望むことは経済的に大変そうだったし、息子とふたりなので、間取りは2DKで探した。結果、予算を少しオーバーしたものの、希望条件の揃った部屋が見つかった。ダイニングは9畳と広めで、外には庭と呼べるような敷地もあり、ビワの木など数本の木々が植わっている。

その部屋で暮らしはじめてすぐに、わたしは友人の言葉を噛みしめることになった。お風呂もトイレも独立洗面台もダイニングもある。前の家に欠けているとわたしが感じていたものすべてがある。とても滑らかに日々の生活がまわっていく。日々少しずつ感じていた、小さな「嫌だな」という感覚は、わたしが見てみぬふりをしていただけで、たしかにそこにあったのだ。

しかし、そんなことを言ったって住む場所を選べない人たちだってきっとたくさんいるだろう。わたしだってお金持ちでは決してない。家賃の高さや部屋の広さなど、制約のある中でどう手入れし、どう愛するか、あるいは思いきって居を移すのか。そのはざまでこの先も揺れて生きていくことだろう。

先日、とある場面でとある人に家計を見せていて「家賃が少し高いですね」と言われた。ひとり親だと物件の審査が通りにくい現実がいまだにあり、保証のゆるい物件に限られるので、どうしても高めになるのだ。その人は善意から「東京に居住して数年経てば、公営住宅にも申し込めますよ」と教えてくれた。

それもまた選択肢のひとつだと思う。しかし願わくば、どんな人にも快適な住環境があればいい。経済的に困っている人にこそ、風呂やトイレ、その他さまざまな場所で小さなストレスを抱え続けないで済む家が整ったなら。新しくてきれいな公営住宅も中にはあるから、そういうところが増えていけばいいなと思う。

もしもわたしに経済的な制約がなかったら、どんな家に住みたいだろうか。今ならその空想を楽しむことができるような気がする。


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