「最低な母親」という烙印-子どもを施設に託すことは、罪か

 「子どもを施設に預けておいて、自分は教育の仕事をするなんて、いったいどういうことだ」

 「子どもを施設に預けていることを公表しているのだから、広報の業務はしない方がいい。会社のイメージが悪くなるから」

 「『子どもが幸せになるためには、まず親が幸せになるべきだ』なんて、詭弁だ」

 これらは、すべてわたしが当時4歳だった息子を児童養護施設に預けていたときにかけられた言葉だ。
 友人から目の前で直接言われ、知人からは会社に連絡がいき、顔も覚えていないくらいの関係の大学時代の後輩からは当時のTwitterでそのためだけに作った捨て垢でなじられ、会社にもメールがきた。わたしがそのメールアカウントを管理していることも知らずに。

 まるで罪を犯したかのようだった。はたして子どもを施設に託すことは、罪なのであろうか。

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 わたしには双極性障害という精神障害がある。10代後半に発症し、20代前半に診断を受けて以来、もう15年以上の付き合いだ。どうやら一生付き合っていかねばならないらしい。

 双極性障害とは、躁と鬱を繰り返す障害だ。わたしの場合、躁になると眠れなくなり、眠らなくても平気で普段と比べて活発に活動する。意識が冴えて、脳内が忙(せわ)しく動き、イライラして人と衝突したりする。対して鬱になると、過眠になり起きられなくなる。背中が重だるく、憂鬱な気分になり、希死念慮を抱くこともある。

 今でこそ落ち着いているが、時には数日や数週間の短いスパンで、時には数年という長い周期で、躁と鬱を繰り返して生きてきた。

 2016年2月、私が29歳のときに出産した息子は、生後6ヶ月ではいはいもそこそこにつかまり立ちをはじめた。まだうまく立てないのに、壁や棚につかまっては立とうとする。立ったと思ったら後ろに倒れたりする。目が離せない。赤子の見守りはこんなに大変なのか、と思った。

つかまり立ちをはじめた息子。生後6カ月だった

 息子は、後に発達障害、特にADHD(注意欠陥多動性障害)の傾向が強いと診断された。当時からその性質がきっとあったんだろう。けれども、わたしにとっては初めての子で、何が普通で何が普通から外れているのか、判断することはむずかしかった。

 息子が生後10ヶ月の年末、わたしは自分の持病と育児の大変さが重なり、育児ノイローゼになって入院した。翌2017年1月から市内の保育所に息子を預かってもらうことになった。

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 息子が赤ん坊のころから、わたしはたくさんの制度に支えられて子育てしてきた。特に延岡市子育て支援センター「おやこの森」に依るところは大きい。「人に頼れるってなかなか幸せだという話(延岡市子育て支援センター・おやこの森に寄せて。小澤のり子先生への手紙)」という記事にはこんなことを書いている。

「これまで、先生の前で私は何度泣いただろう。配偶者と生活を共にしていた家を出たときも、家が定まらない状態で調停の手続きを進めているときも、離婚が成立したときも、その後子との二人暮らしが想定以上に大変で苦労している今も。幾度となく泣きながら電話し、必死の思いで先生のいるおやこの森にたどり着いては先生の前で泣いた。苦しいときに私の心に思い浮かぶのは先生だ。これまで具体的に何をどんな風に話してどんな言葉をかけてもらったのか、詳しくは覚えていない。だけど、頷きながら話を聴いてくれる先生の笑顔は私の心に深くしみ込んでいて、窮地のときに私を助けてくれる。」

 ここに書いているように、これまで施設長である小澤先生に泣きながら電話をして、相談に乗ってもらったことは数知れない。息子が病気をしたらおやこの森の病後児保育に預かってもらっていたし、普段から保育園を利用していた。限界がきたら、地元の児童養護施設が運営するショートステイを利用したりもしていた。

 しかし、この「限界がきたら」というところがミソで、それでは遅い。限界がくる「前に」頼る、制度を使う。ショートステイであれば定期的に預かってもらう。それが息子が乳幼児のころは、制度的にもできなかったし、わたし自身もなかなかその判断ができなかった。

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 2017年のクリスマスを過ぎ年末も差し迫ったある日、息子の父親とわたしの離婚が成立した。数カ月に渡る調停がようやく終結し、息子とわたしはふたり家族になった。

 わたしたちはとある田舎町の公営住宅で暮らしはじめた。古い団地のきれいに清掃された一室がわたしたちの住まいになった。三人で暮らしていた家を出て以来、実家や友人宅、ホテルを転々としていた。どこにも落ち着ける場所はなかった。「ここはようやく手に入れた『わたしたちの家』だ」と心底安堵したことを覚えている。息子が1歳8カ月のときのことだった。

 当時の手帳を見返すと、『ハチャメチャ2歳児』『かわいがり子育て』といった育児にかかわる本を読んでいて、悩みながらも前向きに子育てしようとしていたことがうかがえる。どこまで自覚があったか定かではないが、息子を「ちゃんと」育てたい、「ちゃんとした親」でありたい、という思いが強かったといま振り返ると思う。

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 2020年2月、新型コロナウイルスの影が日本にも忍び寄る最中に、息子は4歳になった。友人が経営していたコワーキングスペースに友人・知人を招待して息子の誕生日をお祝いしてもらった。ケーキを2つもらい、みんなに囲まれてろうそくの火を吹き消した息子は、それまで親であるわたしにも見せたことのない、心から湧き出る弾けた笑顔を見せた。

うれしそうな笑顔。友人撮影

 しかしその数週間後、息子は児童養護施設へ入所することになった。

 当時、わたしは躁状態に見舞われていた。実は、その半年ほど前から、主治医と折り合いが悪くなり、服薬をしていなかった。ほとんど眠れない日々が続き、それでも日中起きていられて、目はギラギラとしていた。常にイライラ、ピリピリしていて、複数の身近な人たちと衝突を繰り返す日々だった。

 そんな状態で子育てすることをわたしは恐れていた。4歳の息子を目の前に、「このまま一緒にいたら、この子を傷つけてしまうかもしれない」という恐怖にとらわれて、「この子を傷つけたくない」という一心で、最後には私から離れることが息子のためだと思い詰めて、息子を預けた。そのことを、理解しえない人もたくさんいるかもしれない。
 わたしには「少しでも息子を傷つけるくらいなら共にいるべきではない」という強迫観念があった。 それは一体どこから来ていたのだろうか。

 一つには、わたし自身が虐待サバイバーであるということがあるだろう。自身が親から虐待されることで、長らく心理的被害を被ってきた。だから、自分の子にはそういう思いをさせたくない。これは子を持つと決めたわたし自身との約束でもあった。

 一つには、わたしの性格が多分に完璧主義だということがあるだろう。やるならば高みを目指したい、満点を取りたいという優等生的な側面があることは否めない。

 一つには、子育て世帯は、核家族世帯、ひとり親世帯が多くを占め、子ども一人を見ることのできる大人の頭数は昔より少ないのに、親は多くを求められることだ。昔ならしつけで済んでいたことが虐待とみなされるし、公共の場で子どもが泣いていたり走り回っていたりしたら白い目で見られることもある。もちろん人によっては温かく見守ってくれるが、白い目を向けられる可能性を怖がって戦々恐々としている親も少なくない。

 また虐待事件が報道されるとき、メディアやSNSでは必ずと言っていいほど親の、特に母親の責任が追及される。子どものために、虐待が許されないのは揺るがない事実だが、それで親が自責したり委縮したりしてしまっては悪循環だ。その報道が流れるたびに、わたしは「親の支援を」と願う。

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 息子の養育が困難となったわたしに児童相談所から提示された選択肢は、児童養護施設または里親に息子を託すという二つの選択肢だった。

 それしか選択肢が残されていないと知ってわたしは衝撃を受けた。それほど、それらの選択肢は自分から遠いものだと思っていたし、まさか息子を施設や里親に預ける日が来るとは思っていなかった。そしてそのような状況に陥ってもなお、自分がそこまで困っているという自覚がなかった。

 児童相談所の人はわたしに「時間がない」と言った。年度末が迫っていて、入所できるタイミングというものがあるのだろうと推察した。そうは言ってもわたしにとってあまりにもつらい現実だった。児童相談所まで車で迎えに来てくれた友人の助手席でわたしは泣いた。友人は静かに見守ってくれた。

 数日後、結果的にわたしは児童養護施設に預けることを選択した。里親を選ばなかった理由は、すぐには息子を迎えに行けないし、いつ行けるようになるかも分からないけれど、親権を持ったまま迎えに行ける選択肢を残しておきたかったからである。また、特定の人に息子の保護者になってもらうのは嫌だ、と感じたからだ。

 苦渋の決断だった。しかしそれでも預けるという覚悟を決めた理由があった。基盤が不安定な親であるわたしが育てるよりも、子どもにとって良い環境を整えた方がいいと考えたからだ。もしかしたら世の中には、子育てに悩み苦しんで、一緒に人生を終えてしまうことを考える人だっているかもしれない。そういう人にこそ、この選択肢を知ってほしい。

 もちろん施設に預けることにはデメリットもある。親としてわたしが息子を預ける以前に考えていた不安要素は、息子が適切に養育されない可能性だってあるかもしれないということだ。つまり虐待されたりいじめに遭う可能性も否定しきれないのである。

 児童相談所の職員さんが見せてくれた施設の写真は、温かみのある木造の建物だった。それを見てわたしはなんとなく、「大丈夫かもしれない」と思った。そして、預ける以上、施設の職員さんを信頼してお任せしようと心に決めた。

 また、社会からの目ももちろん考えた。きっとわたしは最低な親だと言われるだろうと思った。だけれど、子どもの幸せを第一に考えたときに、その時の不安定な状態のわたしではそれが叶えられないと判断した。そして長い目で考えることに決めた。病状が落ち着きさえすれば、きっとまた一緒に暮らすことができる。それを信じることにした。

初めて面会できた日

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 息子を施設に預けてほどなくして、新型コロナウイルス感染症が日本でも流行し始めた。それに伴い、月にたった一度の面会が制限された。焦りと不安と苛立ちが募った。息子の気持ちを考えてもそうだったし、わたし自身もつらかった。でも、それはわたしだけの体験ではない。当時、日本では誰もが家族や大切な人と面会すらできない状況に陥ったのだ。

 そのときの心境を「面会制限でつらい思いをされている方へ(お子と面会した日の記録)」に書いている。「私たちはどうして離れて暮らしているのだろう、と時々思う。でもすぐに我に返る。そんな風ではいられない。会えない今こそ、私自身の基盤をつくり、関係機関と協議を重ねていくのに時間を使ったらよい。」

 もしかしたら結果的に良かったのかもしれないと思ったことがある。あのタイミングで息子を預けていなかったら、コロナ禍での新規受け入れはむずかしかったかもしれない。切羽詰まったわたしと過ごす息子は、窮屈な思いをしたかもしれない。だからやっぱり預けられてよかった、と施設を信頼して自分の環境基盤を整えることに注力する日々だった。

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 息子を児童養護施設に預けて9カ月目に、やっと施設内に泊まって息子と過ごすことができることになった。この日、息子はそれまでと打って変わってはじけるような笑顔を見せ、わたしの手を引いて内泊する部屋へ連れていった。

 この日、わたしは息子の成長をまざまざと感じた。預けたときにはまだおむつも外れていなかった息子が、トイレは自立し、大きなバスタオルを畳んでみせてくれた。お風呂では、苦手だったはずのシャワーで自分の頭を洗ってみせた。きっと親であるわたしに「ぼくがんばってるよ」という姿を見せてくれようとしたのだとわたしは感じた。ほほえましく感じるのと同時に胸の奥が痛んだ。

 公園ではバッタをたくさん手づかみで捕まえてみせてくれた。なんてたくましく育ったんだろうと感じた。

真剣な眼差しでバッタを捕まえる息子

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 施設内泊は一泊だった。この日を境に、わたしはますます「早く迎えに行きたい」という思いを募らせていった。しかし、何をどうしたら児童相談所が「yes」と言ってくれるのかは分からなかった。お腹はキリキリと痛んだ。

 1カ月後、今度は息子が外泊をすることになった。施設まで迎えに行き、連れて帰った。幸せな一日だったはずなのに、あまり記憶がない。だけれど、外泊した翌日の別れ際、息子が泣いて「ママがいい」と言ったことは覚えている。かなり動揺した。どうしたらいいのか分からなかった。しかし、これが一つの大きなきっかけとなって、ほどなく息子は自宅に帰ってくることになった。

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 子どもと離れて暮らす前といまでは、圧倒的に違う部分がある。それは自分の「ダメな親」の側面をある程度、許容できるようになったことだ。自分に甘くなった。もちろん虐待はダメだ。だけれど、過剰に虐待を恐れてともにいることを手放しては元も子もないと痛いほど思い知ったのだ。

 親も人間なのである。子どもの権利は大事だし、子どもファーストであってほしいとわたしも願う。知識としてそれを知っているし、そういう社会だったらと思う。だけれど、この社会は少し、いやだいぶ、親に厳しすぎやしないだろうか。

 その中で、せめて自分くらいは、自分に甘くなければ、過剰に自分を責めて共にいることすらできなくなってしまう。虐待など子どもが傷つけられる立場にあるのでなければ、いろいろあるけれど親子が「共にいる」ことが大事だし、それをサポートしていくのが福祉や行政の役割ではないのだろうか。児童養護施設に子を託すこともその選択肢の一つだとわたしは思う。

「子どもを施設に預けておいて、自分は教育の仕事をするなんて、いったいどういうことだ」
「子どもを施設に預けていることを公表しているのだから、広報の業務はしない方がいい。会社のイメージが悪くなるから」
「『子どもが幸せになるためには、まず親が幸せになるべきだ』なんて、詭弁だ」

 これらは、児童養護施設に子どもを預ける親に対するスティグマである。「お前は最低な母親だ」と烙印を押し、その人格を否定しているのと同じだ。
 この原稿をお読みいただいた方はすでにご存知のことと思う、子を託すには個別の複雑な事情があり、好んで託しているわけではないことを。どうか温かく見守っていただけないだろうか。子育てに優しい社会とはそういう社会だとわたしは思う。

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