完璧主義とずぼらとの間で

 「もえさんは完璧主義なところがありますよね」と友人が言った。わたしの仕事の一つである、定時制高校での授業について話していたときのことだ。先輩教師がスライドを準備してくれるので、さほど準備はいらない、だけれど生徒にとって分かりやすい授業はできていないと思うとわたしが言ったら、「でも授業はできているんでしょう」と冒頭の言葉をかけられた。

 たしかにわたしには完璧主義な側面がある。学生時代、授業の理解に取りこぼしがあるのが気持ち悪くて先生に質問に行ったら、「もえ、分からないことはそのままにしておくのも大事なときがあるよ」と言われたくらいだ。

 今だって、引き受けた仕事は100%締め切りに間に合わせなければと考えているし、対価の発生しないボランティアでの活動だって、やるとなれば全力でやってしまう。そういえば、先ほどの友人は「それって責任感があるってことですよね」とも言っていた。

 わたしはそれを自分の美点だと考えている。完璧というか、高みを目指してこそ到達できるところがあるし、得られる楽しさもあるというものだ。でも、友人から改めて完璧主義だと言われて、少し考え込んでしまった。

 同じ高みを目指すといっても、わたしのように満遍なく不足をつぶしていくようなやり方だけではないだろう。ほかにどういう生き方があるか考えていて最初に頭に浮かんだのは、シジュウカラの研究をしている鈴木俊貴さんだ。

 鈴木さんにかんする川内イオさんのインタビュー記事を読んで知ったのだが、鈴木さんは「シジュウカラの研究を通して、世界で初めて『動物が言葉を話していること』を突き止めた」という。「古代ギリシアの時代から現代まで、『地球上で言葉を持っているのは人間だけ』というのが、科学の常識だった」にもかかわらず、鈴木さんは子どもの頃から鳥の観察を続け、シジュウカラの研究で博士号を取得した。現在も動物言語学の研究を続けているらしい。

 鈴木さんのことを知ったとき、自分のやりたいことをとことん突きつめてきた人なのだなと感じた。わたしにもそういう側面はあるのと、鈴木さんのことをそこまで深く知らないけれど、わたしはなんだか「すべて」を完璧にやろうとしている節があるのかもしれない、と思った。だから、ときどき追い込まれて限界がきてしまう。わたしの基本性質として、完璧主義な側面は確かにある。

 でも、長々と書いておきながら、いい加減なわたしも同時に存在しているのだ。自宅は汚いし、家事支援を受けるなど人に頼るところは頼っている。料理も塩で味付けするだけ、焼くだけなど手を抜くところは徹底的に手を抜いている。案外ずぼらなのだ。

 そこで再び冒頭のシーンを考えてみる。友人と定時制高校での授業について話していて、「先輩教師がスライドを準備してくれるので、さほど準備はいらない」とわたしは言った。たぶんわたしは、それだとあまりにもいい加減に思われてしまうかもしれないから、友人に「ちゃんとやろうとはしているんだな」と思われたくて、つまり表面だけ「責任感がある」自分を差し出すために、「生徒にとって分かりやすい授業はできていないと思う」と付け加えたのだ。

 実際、そう言いながらも、変わらず教材研究の時間を特別設けることなく授業に臨んだ。結果、教えるのがものすごく難しい回があったことは言うまでもない。わたしは完璧主義なようで、いい加減で、それで失敗してもへこたれないほどの図太さまで備えているし、それくらいには年を重ねてきたのである。

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