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分かれ道の先に

 春。出会いと別れの季節を、きみはどんな気持ちで過ごしているだろうか。もしかしたら、別れとまではいかないまでも誰かと物理的に少し距離があいてしまって、心のどこかにすきま風が吹きつづけているような、やるせない思いを抱えているかもしれない。実はわたしも4月の初めごろ、そういった状態にあった。

 昨年から友人たちと共に映画の上映会を行うプロジェクトを進めてきた。友人の一人が「やりたい」と言ったことをきっかけに、仕事や生活の合間を縫って活動してきた。わたしは映画にも少し興味があったし、何より発起人の友人のことが大好きだったので、「友人のやりたいことをサポートする」つもりで参加してきた。

 気の合う仲間たちとの活動は、一日の終わりで「もう寝たいよ」という時間に打ち合わせを重ねたり、念入りに準備をしてきてようやく本番という日に巨大な勢力を持った台風が直撃して延期になったりしながらも、単調な日々に彩りを与えてくれるものだった。何よりイベント後の打ち上げでは毎回みんなの持つ明るい側面がわっと凝縮されて大盛り上がり。大声をあげてお腹が痛くなるまで笑い合い、その度に「次に向けてまたやっていこう」と思えていた。友人のやりたいことを叶える道は、それなりに充実した、幸せなものだった。

 だけれど、今年に入ってわたしには一つ新たな目標ができた。通信制大学で福祉を学ぶこと。すなわち「自分の興味・関心を探求する道」がわたしの前に開かれた。わたしは迷った。友人たちとの活動も、大学での勉強も、その他の仕事や生活に付随するさまざまなものも、すべて両立できたらいい。でも悲しいかな時間や体力といった資源は有限だ。

 特にわたしには体力がない。何かを新しく始めるなら、何かを辞めることでエネルギーやキャパシティを確保する必要があることは、経験上分かっている。自分がダウンしないために、生きる中で身につけてきた知恵だ。

 活動量を減らして団体に在籍したままでいるという選択肢もあったが、不器用なわたしにはそれができないことが目に見えていた。団体にいたら、仕事を引き受けてしまう。だからわたしは、団体を抜ける道を検討し始めた。わたしは、分かれ道に立っていた。

 決めるには戸惑いがあった。これまで一緒に活動してきた友人たちと過ごす時間が減ることに対して、からだのどこか大事な部分を失うような気持ちがまずあった。彼女たちといる時間が心から好きだったからだ。そしてそれによって彼女たちとの関係性が変わってしまうのではないかという心もとなさも生じた。わたしは寂しがり屋なのだ。迷い、葛藤した。

 それでも、わたしは最終的に団体を抜けることを選択した。そう、分かれ道には、選択が伴う。

 ひとりで活動を始めた7年前のことを思い出す。当時のわたしには気の合う友だちがおらず、自分の居場所だと感じられる場所がなくて、だったら自分でつくっていこうと決めた。イベントを開くたびに新しい出会いがあった。世界が広がった。自分の活動を通して知り合った仲間たちと共に新しい活動をはじめた。

 いつしかわたしはひとりで活動することがなくなった。人と一緒に活動すると、苦手なことは誰かがやってくれる。わたしが得意なことをやれば、仲間が喜んでくれる。補完し合うことで、ひとりでは満たされない部分が満たされていく。それが気持ちよくて、気づけば人の活動を応援するばかりになっていた。自分の活動を応援してもらうことは忘れていた。

 原点に回帰したい。いま再びひとりで勉強や活動をはじめ、新たな水脈を見つけたい。わたしは今たったひとつの雫に過ぎないかもしれないけれど、ひとり滴ることで新たな別の雫と出会い、きれいな水流をつくるかもしれない。その先にきっと、別の道に進んだ仲間たちと再び合流することだってあるだろう。豊かなものを見たい。そのために、いま一度ひとりになりたい。

 選んだ道を正解にしていく。春を過ぎ、木々では枝分かれした先でそれぞれの芽吹きが始まるように、わたしたちの分かれ道の先でもきっとそれぞれの芽吹きが待っている。きみも、わたしも、きれいな新緑の葉をつけ、青々と繁ってゆくことだろう。

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