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「飛田君はオカマじゃないよ」 22.7.18

高校時代、突然僕に「おまえ彼氏がいるだろう」とドヤ顔で言ってきた同じクラスの男がいた。


今で言う「アウティング」だが、当時(80年代前半)は一部の教師ですら生徒のプライバシーを人前でペラペラしゃべる時代だったので、そういった配慮の概念はなかったと思う。


その男は皮肉屋で友人が少なく、かつ攻撃的だったが、僕自身もそうだったので、陰キャラ同士、教室の空間を生き抜いていくために近くにいることが少なくなかった。


そもそも僕自身まだはっきりと自覚はしていなかったので――とはいえ、ありがちコースとして中年体育教師が少し気になっていた――、ドキッとするより、あからさまな悪意がすごく嫌だった。

あと、気が弱い男子を「オカマ」と囃し立てる風潮とかも。僕も気の強い女子から言われた。

で、そこへ「飛田君はオカマじゃないよ」とたしなめる“良識ある”大人。


学習雑誌の悩み相談でも「同性を好きになってしまった」という男子に、エラい先生が「そのうち治ります」とノンキに回答していた時代。(『治る』って……。(^^;)


保健体育の授業でも、LGBTQについて教えることはなく、ゲイと言えば、

ピーターや美輪さんなどのヴィジュアル系

もしくは

おすピーなどの毒舌口達者系

で、いずれも「テレビの中の人」という認識が強かった。

なので、「まさか自分が……」と思い込んでいたふしもある。



この時代にカミングアウトすることは、友人・親などから人間関係を切られる覚悟が求められていた――のではないか。(個人の感想)

なので、仮に誰かから好きなタイプを訊かれた場合、当時の女性アイドルを答えるぐらいの知恵はあった。


のちに、ゲイ雑誌を立ち読みして「自覚」するわけだが、

僕自身は今でも自分のことを「ゲイ」と言ったことはない。「殿方が好きな男」。


これは、ゲイカルチャーに必ずしも馴染めない部分があることと、いまだ「ゆらぎ」があるからかもしれない。

「自分は男である」とことさらに言わないように、あえて「宣言」するものでもないのかな、と。

もちろん、昔のトラウマも影響しているかもしれない。


別な言い方をすれば、「ゲイである」というレッテルを貼らなければ、実質殿方が好きであることに(そこまで)悩まなくなるというか。


こういうどっちつかずな態度を「男らしくない」――いや、「ゲイらしくない」と非難されるかもしれないが、男だゲイだホモだオカマだ言う前に、まず人間であるので。


アイムヒューマン!


あえて自分を型にハメる必要はない。

ハメていいのは



……

…………



ごきげんよう。


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