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また一つあなたを忘れる 前編


雪が外の地面を白く染めていく。私は寝過ぎて痛む頭で、ぼんやりとそれを眺めた。

「雪が降ると、何かを一つ忘れる」
私が生まれ育った街の言い伝えだった。私はあの街を愛して、憎んで、もう二度と帰ってこないつもりで飛び出した。それなのにまたこの雪の降る街に引き寄せられた。

祖母は雪が降る度に何かを忘れ、そうして何もかも忘れて死んでいった。それでも最後まで夫のことは忘れなかった。優しく微笑むように眠るその顔を見て、祖母はこの街の人なんだと実感した。祖父も、母も、弟も皆この街の人だった。父だけが外の街から婿になった人だった。だから父は最後まで、この街の雪を不気味に思っていた。

何日も何日も、重さのない綿毛のように降り続き、全てを白く染め、人々の記憶をゆっくりと奪っていく。だからこの街の人は、全てを書き残す。誰もが小さな手帳に約束を書き込み、日記をつける。街の真ん中には大きな図書館があり、山ほどの本が保管されていた。全てを忘れるこの街には、たった一つの言い伝えしかないけれど、たくさんの伝書がある。

私は父の血を濃く引いていた。父と同じように、私は雪が降っても何一つ忘れなかった。母も弟も街の人も、書き残すほどもないことを、忘れたい順に忘れていく。私はそれが悲しかった。私の思い出話に怪訝そうな顔をされる度、彼らがその記憶をもう手放してしまったと気づかされるから。
夏の真っ盛りに生まれ、父が付けた夏の花の名前を持つ私は、この街ではひどく浮いていた。それでも私はこの街を愛していた。雪はいつも美しく白く輝き、全てを覆い隠していた。

私が十八になった冬のことだった。降り続く雪に、人々は皆部屋に閉じこもっていた。私は家から抜け出し、ぽつぽつとしか生徒の来ない学校に一人泊まり込んでいた。幼なじみも同じように家を抜け出し、暖かいパンを持って学校に来た。そうして二人で大きなガスストーブの前で絵を描いた。お腹が空けばパンを食べ、美術室の机に大きなブランケットを敷いて寝た。私は夏の絵ばかり描いた。太陽に照らされる海や、どこまでも続く砂浜や、風が吹き荒れる砂漠の中のオアシスを。彼は人の絵ばかり描いた。私が知っている人も、知らない人もいた。私たちは違うやり方で冬と闘っていた。

降り続いた雪は、二十日目にやっと止んだ。道は雪かきに勤しむ人で溢れ、皆が清々しい顔で挨拶を交わした。私と幼なじみは学校前で別れ、白い息を吐いてそれぞれの家に帰った。私はできたばかりの絵を持って、二十日ぶりに玄関をくぐった。家の中は何も変わらず、同じように暖かかった。
そして私はキッチンの入り口に立つ母を見た。母も二十日前と何も変わらず美しく、後ろで結った栗毛は同じように滑らかだった。母は口を薄く開け、しばらく黙っていた。それからいつもと同じようにおかえりと笑った。
私はただいま、と呟いて二階の自室に向かった。私は出来上がった絵を床に放り投げ、ベッドに顔を押し付けて泣いた。母はいつものように私の名前を呼ばなかった。代わりに手がさっとエプロンのポケットに伸びた。そこにある手帳を開こうとでもするように。
私の名は母の記憶に埋もれた。ちょうど父と同じように。母は心の底で私の名前を忘れたがっていた。

父のつけた夏の花の名前を持つ私は、父によく似ていた。私の濃いこげ茶の瞳も髪も、父とそっくりで、しかし他の誰とも似ていなかった。私も弟もそして母も、父が大好きだった。父の陽気な瞳はいつだってきらきらと輝き、私たちは毎晩父のギターに合わせて歌った。
けれど彼はある日遠くの街に旅立ったきり、そのまま帰ってこなかった。私が十四の時だった。母は泣き暮れ、悲しみ、そうしていつからか父の話をしなくなった。やがて母は再婚し、私たちには新しい父親ができた。彼は町役場で働く真面目な優しいひとで、弟もすぐに懐いた。けれど私は皆が父親を忘れていくのが気味悪く、家に寄り付かなくなった。家はいつも私と弟のために暖かく整えられていたが、私は隙間風の鳴る美術室でパンをかじっていたかった。

その夜私は街を出ることを決めた。誰にも何も言わず、遠くの街の画家のアトリエに入った。賃金を貯め、大学に行き、さらに絵を学んだ。私は私の街も街の人のことも何も忘れなかったが、彼らは私のことをどんどん忘れていくだろうと思った。

私は夏の絵ばかり描いた。草原を渡る水牛の群れ、華やかな衣装に身を包んだ踊り子、市場の熱気、どこまでも続く青い海。そういう時によく、幼なじみのことを思い出した。彼はまだ人の絵を描いているだろうか。一人で冬と闘っているのだろうか。
















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