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エッセイ

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記事一覧

政治は「まさはる」と読むかもしれない

政治というシステムは白黒をつける。白黒がついていないところには、不都合な何かがある。日本語という言語は、白黒をつけることに向いた言語ではない。曖昧さの中にこそ本質を見ようとする言語だ。だからよい政治と日本語というのはとても相性が悪い。

政治の話がつまらないのは、政治の話をしたがらない人が多いのは、政治の腐敗とか、意識や興味の問題とか、そういうことではなく、そのシステム自体が日本語という言語システ

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命題「あなたはこしあん派?つぶあん派?」

命題「あなたはこしあん派?つぶあん派?」

「あなたはこしあん派、つぶあん派?」という質問がある。「あなたの血液型は?」「あなたは犬派?猫派?」に並ぶ、日本三大面白くない質問であろう。犬、猫はそれぞれの思い出や、自分のペットの話などに繋げることができるし、血液型は占いとしてのエンタメ要素がある。それに双方とも、共感として結束を高める効果や、対抗軸として会話を盛り上げる効果が期待できる。(それ程の効果を発揮するとは思えないが。)それにその期待

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テラスハウスのこと

「面白さ」や、「有名になること」やらは果たしてそれほどまでの価値があるのだろうか。自分の身体や生活や生命を危険に曝すほどの価値が。

リアリティショーの面白さって、リアルなことにあるんじゃなくて、切り取り方次第でどんな生活からもフィクションを紡げるという、編集にあると思っている。そうじゃなきゃ人の生活なんて見ていられない。フィクションであるということに安心して、ぼくはやっと人間を面白がる。その人個

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肌蹴る光線「すべてが許される」

肌蹴る光線のオンライン上映にて、ミア・ハンセン=ラヴ監督作「すべてが許される」を観た。肌蹴る光線とは、「上映機会の少ない傑作映画を発掘し、広めることを目的とした上映シリーズ」で、毎回とても面白い作品を上映している。その第1シーズン最後の作品が「すべてが許される」だ。

前回上映された「コジョーの埋葬」はとても素晴らしく、こちらにも感想を書いたが(『映画「コジョーの埋葬」を観て』)、「すべてが許され

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ウラジオ日記を書籍化しました。

ウラジオ日記を書籍化しました。

noteで連載したものに、書き下ろし「写真を捲る」と詩を15篇加えた特別版です。栞も付いてきます。

リンク先の紹介文は、深夜特急のパクリです。最初の一人旅がインドだったこと、香港で大小にハマったこと。深夜特急は旅に行く度に思い出す。今読むと、あんな感傷的になるかとうそ臭くも見えますが、それがまた魅力的なのでしょう。参考にしようと深夜特急の紹介文を見てみたら、ウラ

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光を灯す

楽しいことや明るいこと、好きなものにちゃんと触れていたい。それは単に苦しさや暗さから逃れる為じゃない。

人は辛い記憶を忘れようとする。それは個人でも集団でも。災禍の記憶は何度となく忘れられてきた。そこで起こったことも、失敗も、成功も。そして事態を繰り返す。災禍を更なる災禍へとまた繰り返す。そもそも終息はないのだ。災禍はずっと今でも続いている。東日本大震災の余震がまだ続き、復興はまだ終わらず、原発

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勝った負けたじゃない

コロナに負けるなとか、みんなで戦おうとか、そういう言葉にとてつもなく違和感がある。

そもそも私は勝ち負けの論理がとても嫌いだ。それは戦争の論理そのままだからだ。スポーツも戦争の代替物としか映らない。戦争は無条件にいやなものだと思っているけれど、それを何故かと問うてみれば、勝ち負けの論理で動いているからだと思う。戦争が嫌いで、スポーツが嫌いで、勝ち負けが嫌い。というのはぼくの中でまったく同じ意味を

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この日々のことを覚えておくための日記

2020/4/5 友達に会いたい

2020/4/6 外から不思議な鳴き声が聞こえる。カラスのようだがとても低いふるえるような音色で鳴いている。そっと窓を開けてみても姿は見当たらない。在り処を探して外に出ると、少し大きめのカラスが電線に留まっているのが見える。鳴き声はしない。あれかなとそっと見守っていると、カラスが飛び立つ。もう一羽同じところから飛び立つ。一羽のように見えたカラスは二羽いたようで、

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aikoが好きだ!

aikoに最初に出会ったのは中学の終わり頃で、なんだかこの人は他と違う!わかんないけどめちゃくちゃすごい!と思っていた。ちょうどaikoが10周年を迎えて、記念にアルバムの初回版がすべて復刻されていた。ぼくは小学生から貯めていたお年玉と、高校の入学祝いを使って、全部のアルバムを買い、どっぷりとaikoに浸る。

アルバムを聞いていると、花火やカブトムシが入っている桜の木の下やボーイフレンドが入って

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志村、後ろ!

なにやら昔書いた記事が急にたくさん読まれている。なんでだろうと不思議に思ったが、タイトルに「志村けん」が含まれているからだとわかった。

記事自体はまったく志村けんと関係がない。去年行ったウラジオストク旅行の話だ。(ウラジオストクにすら着いていない。)でも夢に出てくるくらいに、志村けんというアイコンは日本人の無意識に刷り込まれているということだろう。

両親はドリフが嫌いだったようで、志村けんをテ

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家族の顔出しパネル

家族という言葉は何を指すのか。家族や血という括り方にとても大きな違和感を持っている。家族と距離を置き、あまり信用していない自分。それでも家族について考察してしまう矛盾。

子どものころ、小学三年生辺りからか、ぼくはあまり写真に写らなくなっていた。実家のアルバムを見ると、ぼくの写真がある時期から一気に減っているのがわかる。学校で撮る写真や友だちと撮る写真には普通に写っていて、家の写真には写っていない

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「友達に会いたい」

ふと大学入学の頃を思い出した。それは2011年のことだ。

ちょうど震災があって入学式はなくなり、新しい生活の前に空白の時間が流れた。空白といってもそこには確かに時間が流れていたわけだけれど、日々にあまりに手がかりがなくて、ブックオフで買い集めていたドラゴンボール全巻を読んだ以外に記憶がない。中学も高校もぼくにとっては過去で、今生きている現在は未来に続いていた。目線の先にある筈の新しい何かが急に遠

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映画「コジョーの埋葬」を観て

映画「コジョーの埋葬」を観て

視線を感じるというのは、まだ科学的に証明されていない現象だ。五感とは別の何かで人の視線を感じる。そうして振り向く。そういう瞬間が日常にある。あの視線を一体私たちはどうやって感じているのだろう。

「コジョーの埋葬」という映画を見た。そこには正にそんな視線が飛び交っていた。温度や風と同じように、目に見えないところに確かなリアリティを感ずることがある。この映画の中に描かれる視線は何度も、目に見えている

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夜明け前の白い塊

夜明け前。

家の前でタバコを吸っていたら、隣家のドアが一瞬開いて、白い何かを玄関先に勢いよく投げつけるとまた閉まった。

なに、なに、ってびっくりして近寄ってみると、なにか白いものが玄関先の土の上に落ちている。まだ外は暗く、あやしがりて寄りてみても光りたることもない。家に帰って明かりを探しても、手ごろなものがない。懐中電灯も電池が切れていて、電池を換えようと中を開けたらバネとか諸々も飛び出てきて

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