「友達に会いたい」

ふと大学入学の頃を思い出した。それは2011年のことだ。

ちょうど震災があって入学式はなくなり、新しい生活の前に空白の時間が流れた。空白といってもそこには確かに時間が流れていたわけだけれど、日々にあまりに手がかりがなくて、ブックオフで買い集めていたドラゴンボール全巻を読んだ以外に記憶がない。中学も高校もぼくにとっては過去で、今生きている現在は未来に続いていた。目線の先にある筈の新しい何かが急に遠くなって、立ち尽くすばかりだった。今年大学に入学する人にもきっと同じような気持ちの人がいるだろう。働いている居酒屋に新しく入ったバイトはもうすぐ大学新一年生で、その子と話していて思い出した。

休みは休みだから、ただの大学生にとってそれはただの休みだ。でもそこにある筈の生活がなくなって、新しい出会いの機会も失われた空白の時間に当てはまる語彙を知らないから、ただ時間が過ぎていくのだ。二年生だったら、違ったろう。新しさのない退屈なモラトリアムの延長に、喜ぶ気持ちも持てたかもしれない。喜ぶなんて語彙はこういった事態に似合わないのだから、大きな声では言えないだろうけれど、素直に休みを喜べないということがまた人を苦しめるのだ。

大学も卒業して、細々と働いている今、辛いのは友だちに気軽に会えないことだ。こないだ書いた詩に「友達に会いたい」という言葉を使った。詩としては完成しきっていない気がする。この切実さが詩の中に描ききれていない気がする。それでも「友達に会いたい」という言葉が、詩性を帯びるなんてことはとても衝撃的で、そのことを残しておきたいと思って書いたのだけれど。この切実さについて、表せる語彙をまだぼくは見つけられてなくて、それでも言葉を探すことはしていたい。どこかに出かけて何かを感じて、そういった刺激が創作をする上でとても重要なことで、それが中々できない今、ぼくは言葉を失いつつあるのだ。そんな中でもふと口走った「友達に会いたい」という言葉の詩性と切実さに、ぼくは少し苦しくなり、ぼくは少し救われたのだ。

大学一年生になる、その四月のこと、新しい生活のために引っ越したわけでもなく実家にいたのだから、会おうと思えば友だちに会えたはずだ。でもぼくは会わなかった。そもそも実家を離れたかったけれど、許してもらえなかったぼくの気持ちは、もう実家を離れていたのだ。地元を離れていたのだ。でも足下には踏みなれたフローリングが敷かれている。懐かしむことも振り返ることもできない場所で、感情のあり方がわからなくなる。ぼくはまだ見ぬ友達に会いたかったのだろう。

働いている居酒屋もしばらく休むみたいだ。その子にとっての新しい出会いもまた宙に浮いてしまった。折角時間があるから、書きかけの小説を書き上げたいし、もっと確かに思える詩を見つけたい。それでも人や、もっと言えば世界と会えないことが、語彙を失わせる。本を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり、豊かな世界と出会う機会はいくらでも用意されている。文化は人が生きる上で如何に重要か。それでも音楽を聞く気にもならないし、本を読む気にもならない、ぼくはどうすればいいのだろう。全然わからない。

それでも久しぶりにエッセイを書いて、頭を少しだけ整理できた気がするのがとてもうれしい。言葉を書いてみると、思ったより言葉が出てくることがある。おしゃべりが意識的に語彙を紡ぐのではないように、ぼくは文章とおしゃべりしてやっとまた、ゆっくりと語彙を取り戻せそうな気がしているのだ。ぼくにとって文章を書くというのはとても大事なことで、そういう確かに大切なことを見落とさないようにしていたい。

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