命題「あなたはこしあん派?つぶあん派?」
「あなたはこしあん派、つぶあん派?」という質問がある。「あなたの血液型は?」「あなたは犬派?猫派?」に並ぶ、日本三大面白くない質問であろう。犬、猫はそれぞれの思い出や、自分のペットの話などに繋げることができるし、血液型は占いとしてのエンタメ要素がある。それに双方とも、共感として結束を高める効果や、対抗軸として会話を盛り上げる効果が期待できる。(それ程の効果を発揮するとは思えないが。)それにその期待があって、その質問は繰り返されているに違いない。しかし「こしあん派?つぶあん派?」というのは一体何なのだろう。共感としても弱いし、対抗するほどの熱意を両者が帯びるとも思えない。あんこ問屋同士でしか成立しないのではないか。あんこ会社がキャンペーンとして打つのであれば、理解できるが、あんこに生活の基盤を置いていない人同士の会話において、「こしあん派?つぶあん派?」の話題が盛り上がることがありうるのだろうか。
幸いなことに私はこの質問をされた経験はない。いやあったかもしれないが、あまりに盛り上がらなかったために忘れているだけかもしれない。というのも聞き覚えがあるからだ。一体どこでこんな質問を聞いているのだろう。テレビやラジオで聞いたのだろうか。そんなつまらなそうな番組を視聴するだろうか。
そのことは一度置いておいて、もし今の私にこの質問が投げかけられたら、どう答えるだろう。どう考えるだろう。
こしあんとつぶあんの違いとは
あんこの完全体がこしあんであり、あんこになりきらない豆の状態が保持されたものがつぶあんである、というのが私の解釈だ。この質問において栗や芋などのあんこは想定されていないだろう。ここでは小豆に糖分を加えて加工した製品をあんことしている。であるならば、小豆が完全に加工された状態をこしあん、未加工の状態を含むものをつぶあんと考えていいだろう。
そうすると「あんこ」として想像するものはこしあんになる。つぶあんは「あんこ」になりきっていない状態なのだから。つまり「あんこ食べたいな。」と思うときに浮かべているものはこしあんになる。では果たして私はこしあん派であると言えるのだろうか。
受動的接触
ここで重要なのは、私が人生で一度もあんこを食べたいと思ったことがないということだ。そしてこれからも決して思うことはないだろう。あんこが嫌いというわけではない。しかし好きでもないのだ。
あんこを食べたことは当然ある。しかも何度もだ。食べたいと思っていないのに何故食べているのかといえば、あんこは常に向こうからやってくるからである。
たとえば友達の家で出されたお菓子であったり、おばあちゃん家で出されたおやつであったり、旅行から帰ってきた先輩の土産物であったり、様々なシチュエーションであんこは向こうからやってくる。体や脳があんこを食べたいと思う前に、不意にあんこは来訪してくるものなのだ。繰り返すが別にあんこが嫌いなわけではない。しかし好きでもないあんこを欲することはない。あんこを欲していないとき、当然、なるべく「あんこ」でないことをぼくは求める。だからあんこになりきらないつぶあんである方が救いがあるだろう。
あんこになりきらない豆の物質感が立ち塞がり、「あんこ」の侵犯をある程度抑えてくれるからだ。カギカッコ付きで表したあんこは想像のあんこだ。想定されるあんこだ。(先ほど述べたように、私の解釈ではこしあんということになる)食べる前に想像されるあんこの味や食感などを私が欲していないとき、粒の存在はイメージの流入を防ぐ防御壁になり得るのである。
イメージと実存、イデア
イメージ界のあんこと、実存界のあんこのせめぎ合いこそが、つぶあんの哲学的本質である。いくら想定されたあんこがこしあんであったとしても、それが実存世界でしか接触しない存在であり、なおかつ不意にやってくるものであるならば、私はつぶあん派と考えざるを得ないのである。理想のあんこが、こしあんであってもだ。こしあんはイデア界のあんこの影に過ぎないのだから。
これは飽くまでこしあんとつぶあんを形状の違いとそれによる印象の変化でしか捉えられず、なおかつあんこに対して能動的に接したことのない場合の話である。だからこれは私の中でしか成立しない思考であるかもしれない。いや、思考とは私の中でしか成立しないものであるのかもしれないが。
こしあんはどれも一緒に思えるし、つぶあんもまた粒の大きさ以外に差がわからない。先ほど「影に過ぎない」と言ったが、それは繊細な舌があった場合である。繊細でない舌において「あんこ」とこしあんは常に一致しており、それは私の中ではあんこそのものであり、イデアであるとすら言い切れるだろう。私はこしあんを通してイデアに触れることができるのである。「こしあん派?つぶあん派?」という質問がはじめて意味を持った瞬間だ。
結論
あんこの違いのわかる人にとっては、糖度やきめ細かさ、豆そのものの味や、色合い、あんこひとつひとつに違いがある。だからあんこの違いのわかる人にとってこの二択はあまりにナンセンスであろう。だから冒頭で述べたようにあんこ問屋が盛り上がることすらあり得ないのかもしれない。この二択はあんこの違いのわからない人が、実存主義と本質主義について興味を持つために用意された質問なのだ。
以上、甘いものと哲学にまったく興味がない、私の考察でした。
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