映画「コジョーの埋葬」を観て
視線を感じるというのは、まだ科学的に証明されていない現象だ。五感とは別の何かで人の視線を感じる。そうして振り向く。そういう瞬間が日常にある。あの視線を一体私たちはどうやって感じているのだろう。
「コジョーの埋葬」という映画を見た。そこには正にそんな視線が飛び交っていた。温度や風と同じように、目に見えないところに確かなリアリティを感ずることがある。この映画の中に描かれる視線は何度も、目に見えているもの以外のリアリティを感じさせる。映画という視覚芸術において、(いやだからこそ)目に見えないということの確かなリアリティが描かれているのだ。描かれているという表現も適切でない気がする。私が感じているということ。それだけでいい。映画というものが孤独な語りかけであり、それを複数人が同時に得るという奇跡であることを思い起こせば、そのリアリティは私個人のリアリティであることに違いないのだから。
他の人が撮ったらバランスが崩れ、めちゃくちゃにダサくなるだろう映像の絶妙なキワ。ダサさのキワにこそ最高のかっこよさがあることを私はブランキージェットシティに学んだのだけれど、そういう美しさがある気がする。
日本の自主映画で同じように詩的な映像に溢れたものがあった。私はそれをダサいと感じた。多分そこにリアリティがなかったからだと思う。ファンタジーだろうと夢だろうと、どんなに荒唐無稽な物語だろうと、そこに切実さがなければそれはつまらないものになる。この映画は切実だ。詩は現実であり、夢想ではない。
トールモーハウゲンの「夜の鳥」という小説を思い出していた。夜になるとタンスの中で暴れる鳥に怯えるオアキム少年と働くことのできない父、それから様々な人々との日常が織り成す、詩的な物語。少年の視覚によって切り取られる父の姿。夜、闇を埋め尽くす無数の鳥たち。
私自身がまた土の奥深くに放した黒い鳥の物語を書いていたことを思い出す。埋葬された黒い鳥が地中を飛び回る夢想。その夢想を頭の中に飼いながら、踊る男の物語。それは完成を見ないまま、パソコンの奥深くに仕舞われたままだ。あれが完成を見れなかったのはそれが夢想であったからかもしれない。それが切実な現実であったなら、黒い鳥は今なお足下を飛び回っただろう。
どういう結末がやってきても納得できるのはそれが、本当に起きたことだからだ。映画はずっと主人公による語りによって進められる。その語りは大人になった彼女が、自らの物語を図書館で読み聞かせている声だ。それがいくらか昔話のように聞こえるのもその所為だろう。昔話が整合性などという形のとり方とは無縁のいびつさを見せても、それを否定する言葉を持てないように、それは「ほんとう」であるということを塗り重ねる。
色遣いがまた革新的だ。頭に残る色の残像は青、ピンク、紫。それともあの青はシアンで、ピンクはマゼンタだろうか。であるならばイエローを加えれば色の三原色だ。色の三原色は光が当たり反射して見える色で、すべてを混ぜ合わせると黒になる。しかしそれは飽くまで理論上で実際には濃い茶色程度だそうだ。映画の中の語彙で例えるならばカラスではなく、主人公たちの肌色に近いのかもしれない。
しかし何よりも頭に残ったのは血の色だ。兄弟喧嘩の後、流れたどす黒いどろどろとした血。褐色の肌に流れる血はあんな風に見えるのだという驚き。肌の色によって血の色も変わって見える。色彩豊かなヴィジョンが続く中で、あの輝かない赤は印象的だ。日本人が描く血の色とはあまりに違いすぎる。それから子どものころ、膝につけた擦り傷を思い出す。顔面を強打して流した鼻血を思い出す。血は垂れて、土の上に乗る。土に弾かれた塊はさっきの赤い血とは似ても似つかなくて、とても奇妙に見えていた。
垂れた赤い血が土の上に乗って
弾かれて隆起し、それからゆっくりと吸い込まれていく
光の屈折と透過度の変化で
色の様相をゆっくりと変えていく
徐々に土が溶け
土の色素が混じり
粘度を増し
色を変えていく血
テレビ番組でさまぁ~ずが子どもから送られた絵について、色遣いがいい、色のバランス、置き方がいい。と執拗にほめていたのを思い出す。確かな配置で置かれた色遣い。その色はその色の横でその大きさでその明るさで置かれていなければならないと、確信させられるような色の配置。そういう色彩の魔法を思い出した。
また違う物語を思い出す。黒田夏子の「虹」だ。虹を見たことがないことに「密かな劣等」を抱くタミエが海辺を歩く。短い物語の最後に虹を見つけたタミエは幼い頃の記憶を甦らせる。虹と共に甦る血腥い記憶。
ヴィジョンを映視する。
ビニール傘は美しい。すべてを透かすビニール傘。落ちてくる水滴を見つけることができる。世界との境界を見つけることができる。映画にはビニール傘が出てくる。しかし雨は降らない。「水だけが過去を浄化できる」と水について人一倍の思いを馳せるのに、この作品には一度も雨が降らない。降るのは黄金の雨ばかり。あれは水なのか、火花なのか、光なのか。降り注いだ足下から虹は架かるのか。黄金の雨に照らされて、水溜りから虹が伸びるのならそれはきっと記憶の向こうへと繋がっているだろう。黄金の雨に降られたヴィジョンによって結局彼女は父を救い出せない。果たして救い出せなかったのだろうか。叔父が死んでいるが生きていたように、父は恐らく死んでいるが生きている。それが喜ばしいことなのかはわからないが、図書館に物語を聞きにきた父と幼い自分の幻想は、その父が彼女の魂と共にあることを暗示するだろう。叔父が共に死んだ妻とおらず孤独なのに比したときに、父は孤独でなく生きている。父の眼差しの中にあった悲しみは消えているようにも見える。(大江健三郎の「「雨の木」を聴く女たち」に倣って「グリーフ」とフリガナを振ってもいい。)父はそもそも現実の中で生きていたのか。現実から逃げることが「前に進んでいる」ことだったのだとすれば、父は救われたのか。「こんなところで死ぬわけには」ともがき、嫌ったゴキブリを口にしても生きようとした父の生への渇望は、物語る彼女の希望であったのかもしれない。「いつまでもお前のそばにいる」といった父への希望。
「いつまでもお前のそばにいる」ではなく「どこへも行かない」と彼は約束していたみたいだ。「いつまでもお前のそばにいる」なんて台詞はどこにもない。それなのにそう私は記憶している。大意としては間違っていないのかもしれない。しかしこういった些細な認識の違いが人との齟齬を生んだりするのだ。記憶とは業の深いものである。
一度見た映画を思い出すのは夢を思い出すのに似ている。働きすぎた理性によって映画とは違うまとまりをそれは見せるだろう。一度見た映画を思い出すのは記憶を思い起こすのに似ている。取り出される度に磨かれ、美化されていく。
川の縁で虹を吐く男のイメージがあって、それを小説にしようとして数行書いた筈なのだけれどそれはどこにも見当たらない。その男は確か色盲であったはずだ。
幼いころスズメバチに刺された記憶がある。しかしその記憶を母も父も覚えておらず、その場にいたはずの祖父も薬を私の左腕に塗った祖母もそんなことはなかったと言う。でもあれは確かな記憶のはずなのだ。
空気階段の踊り場でこないだ言ってたあずきばあちゃんと共にみんなの記憶から消えた少年を思い出す。それから深夜の馬鹿力の、「空脳」という空耳みたいに脳が勘違いした不思議な事象を送るコーナーを思い出す。
書かれた物語と書かれなかった物語、語られた物語と語られなかった物語。語られなかった、或いは語り継がれず消えていった、無数の物語。この映画で語られる物語はそれらの物語と親和性があるように感じる。私が色々な記憶や、書ききれなかった物語を思い出すように。忘れられた記憶を呼び起こすように。
何故か一番に覚えているのは黒い犬だ。ドローンによって映された俯瞰の端っこ、白い床面を駆けていく黒い犬。物語とは何の関係もない黒い犬。たまたま映りこんだであろう黒い犬。記憶というものは不思議なものである。
私は夢と共に目覚めた。
Burial bridal cemetary ceremony
口の中で発音してみる
Burial bridal cemetary ceremony
共同墓地で行われる歓迎の舞い
地下深く埋葬された花嫁衣裳が
視線を掬い上げる
指の隙間から零れ落ちていく
視線を掬い上げる
指の隙間から零れ落ちていく。
零れ落ちた赤い血が土の上に乗って
弾かれて隆起し、それからゆっくりと吸い込まれていく
光の屈折と透過度の変化で
色の様相をゆっくりと変えていく
徐々に土が溶け
土の色素が混じり
粘度を増し
色を変えていく血
Cyan magenta yellow key
口の中で発音してみる
Cyan magenta yellow key
混ぜるたびに色々な色を作り出して
色々な色を作り出そう
醜いカラスを私は美しいと思うのだ
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