勝った負けたじゃない

コロナに負けるなとか、みんなで戦おうとか、そういう言葉にとてつもなく違和感がある。

そもそも私は勝ち負けの論理がとても嫌いだ。それは戦争の論理そのままだからだ。スポーツも戦争の代替物としか映らない。戦争は無条件にいやなものだと思っているけれど、それを何故かと問うてみれば、勝ち負けの論理で動いているからだと思う。戦争が嫌いで、スポーツが嫌いで、勝ち負けが嫌い。というのはぼくの中でまったく同じ意味を持っているところがある。

ヒップホップは好きだけれど、ラップバトルは面白くない。誰かにこれは感動するから見てと見せられても全く心が動かない。フリースタイルは好きだけれど、そこに勝負が絡んでしまっては、負けたラップがつまらないものと言っているようで面白くない。ファンからしたら敗者にもリスペクトがあり、その素晴らしさも認めていると言うのだろうが、だったら勝敗を決めることに意味があると思えない。

お笑いファンとしては賞レースは楽しみだ。しかしそれはネタを楽しみたいという純粋な理由で、勝ち負けは正直どうでもいい。ただそういう環境がフリとなって、面白さも変わってくるのだから、賞レースという場所は面白いとは思っている。しかしスポ根的に描かれたり、芸人のかっこよさにフォーカスするスタイルはあまり好きではない。

自分に勝つとか、コロナに負けるなとか、何か違和感がある。勝ちとか負けじゃなくないかって思う。なんでだろう。かと言って手を取り合い、肩を組み合い、行こう。というような言説もいやだ。たぶんその言葉の裏には協力し合い何かに立ち向かおうとする姿があって、それはつまり勝ち負けの論理に帰着するからだろう。勝った負けたじゃないのよ、それぞれの孤独を尊敬しあおうということだ。そこに上下はない。勝ち負けには上下がある。トーナメント表を浮かべればわかる。負けたものは下に置かれる。表彰台を見ればわかる。勝者はより高い位置に立つ。敗者は野垂れ死に、勝者は立ち上がり先へと進む。そう絵で示されているように見える。

勝ち負けも何もコロナに勝つとは何を指すのか。コロナに罹ったら負けなのか。「コロナふざけんな」って言葉にも何か違和感がある。この怒りの矛先はcovid-19というウイルスに向けるべき怒りではない。政府や、一部の人の冷たさや、愛したものが崩れてく様や、ある人の無神経さや、そういったことに対してで、ウイルスに対して持つべき怒りではない。社会がコロナに対してまとまって行動できることが、コロナに対する有効な手段だとして、それで「勝とう」というのは違う。スクラム組んで立ち向かおうと言えば、そのまとまりに入れない事情を抱えた人はどうなるのか。勝ちというのは何かをまとめる言葉で、その枠から外れた人に対しての攻撃を正当化しかねない恐ろしさがある。何かに勝つためには犠牲が必要だという論理も成立してしまう。

勝ちは正義で、負けは間違い。勝ちも正義で、負けも正義。どちらにしろおかしい。正義なんてないのだから。正しさをふりかざし、ぶつけあうのが勝ち負けの論理だと思う。それが気に入らないのか。

大体負けるなって言葉は精神論で、精神でどうこうするような話じゃないし、勝ち負けってルールがないと成立しないし、こういう未知の事態に明確な審判なんて下せないし。今参考にできるのってたとえばスペイン風邪の例なんだろうけど、スペイン風邪に人類は勝ったんですか?負けたんですか?世界大戦より人が死んでいるんだって、じゃあ負け?それとも生き残った人も大勢いるのだから勝ち?

紅白歌合戦の勝ち負けを誰が気にしてる?逆になんで他の勝ち負けは気にする?紅白歌合戦が気にならないのは勝ち負けの論理で動いてなくて、それぞれがそれぞれの歌を歌っているからで、視聴者もどちらに与することなく好きな歌だけ聞いて、後は飯食ったりダラダラしているからで、何にしたってこういう態度がいいんじゃない?って俺は思う。

ここ最近は何か明るい詩を書きたいなと思っていたけれど、そうやって周りに気を遣い創られた詩でない詩なんて、正に戦時中に書かれた翼賛詩そのものじゃないかと、こわくなる。みんなの為の詩なんて。

ネットを見ても、ラジオを聞いても「コロナに勝つ」「負けるな」と言う。その他にも「この闘いを」「大切な人を守るため」と戦争みたいな言葉が並ぶ。何を信じたらいいかわからないけれど、正しさなんてものもないと思う。自分で考えて選択すること。正しさなんかない中で、それでもよりよい仕方を探すこと。間違いがあったら間違いと認めること。それが社会で、それが政治で。少なくとも目に見える範囲の人で変化が起きているように思う。みんな政治の話をよくするし、日々の不安を思っているし、それを大きな視野で見つめている気がする。たぶん必死にみんな考えている。それはつまり市井の人々が政治を学び直している様ではないか。はじめて日本で「政治」が行われ出しているのかもしれない。

この一連のツイートはしっかりとした見地で図られている気がして、信用できそうな気がする。それはさておき、この一連の文章のシメが

こういった言葉で終わっていることを考えてみる。違和感はまったくない。しかしこれは正に戦争の語彙である。直喩だ。他の言語のことはわからないが、何かに抗うときに使われる語彙が戦争由来のものしか私たちは持ち合わせていないのではないかと想像する。科学の発展が戦争と足並みを揃えるように、言葉の発展もまた戦争と足並みを揃えるのだとしたら、それはなんと悲劇的なことだろう。そのことにこそ抗いたい。

田原総一郎の安倍首相へのインタヴューから引用する。

財政の厳しさは当然閣僚も認識しており、「コロナウイルス問題で、数十兆円もの財政出動をするなんてとんでもない」と考えていたのだ。
しかし、これは「平時の発想」である。
コロナウイルスが、世界に拡大し、日本でもこれだけ多くの感染者が出ている今、もはや「戦時」なのだ。
安倍首相はこうも言った。
「実は私自身、第三次世界大戦は、おそらく核戦争になるであろうと考えていた。
だが、このコロナウイルス拡大こそ、第三次世界大戦であると認識している」。
政治を「戦時の発想」に切り替えねばならない。
その認識が固まったので、緊急事態宣言となったのだ。
4月15日は、僕の86回目の誕生日である。
このような「戦時下」で迎えるとは、思いもしなかった。
この戦争は敵の見えない、困難な闘いである。
ただ、僕が子どもの頃体験した、あの戦争との大きな違いがある。
国と国、人間と人間が闘っているわけではない。
世界の多くの国々が、ウイルスという敵と共闘しているのだ。
技術や情報、データを共有し、世界が協力し、ウイルスに打ち勝てば、必ずまた日常を取り戻せる。
みなさん、その日までがんばりましょう。
BLOGOS 「緊急事態宣言発令後に、安倍首相に会って僕が確かめたこと」より

田原総一郎と安倍首相との対談である。首相がこれをはっきりと「戦争」と名づけていること、その「戦時」を軸に田原が記事を書いていること。ぼくはこのことに居心地の悪さを感じている。

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