光を灯す

楽しいことや明るいこと、好きなものにちゃんと触れていたい。それは単に苦しさや暗さから逃れる為じゃない。

人は辛い記憶を忘れようとする。それは個人でも集団でも。災禍の記憶は何度となく忘れられてきた。そこで起こったことも、失敗も、成功も。そして事態を繰り返す。災禍を更なる災禍へとまた繰り返す。そもそも終息はないのだ。災禍はずっと今でも続いている。東日本大震災の余震がまだ続き、復興はまだ終わらず、原発事故がまだ続いているように。疫病が完全にいなくなることはないように。台風が何度もやって来るように。戦争の痛みがそのまま歴史として脈々と今も続いているように。戦争が起こる原因に戦争があって、第二次世界大戦の後に冷戦があって、ベトナム戦争やその他の戦争があって、或いは国家間の関係性があって、憎しみの連鎖があるように。すべての災禍に終息はない。終息とは終わったと息を吐くこと。安堵に息を漏らす。

カミュが書いた「ペスト」の中にタルーという登場人物がいる。タルーは「終息した!」と世間が日常に戻る中で、ペストに罹り死んだのだ。

中国ではペストが終息したと盛り上がる様子があるらしい。すべての中国民が騒いでいるわけではないだろう。その割合はわからない。でもきっと、すべての国でそれがまた起こるのだ。終息などないというのに。日本ではまた経済を回さないといけないという動きがあるみたいだ。経済は回さないといけないのだろう、資本主義の世界で生きる限りは。しかし災禍が続いているということを忘れてはいけない。アメリカではコロナはフェイクであるというデモが起こっているという。正しい対策も結局はよくわからない。しかし災禍が今なお続いているということを忘れてはいけない。そうして人は死ぬのだから。

いつだって私たちは渦中だ
詩「右を見ても左を見ても」より

このあいだ、震災のときの話を書いた。書いたと言ってもほんの少し。ぼくは大学の入学前で、突然のぽっかりと空いた時間に戸惑い、空白を空白のまま過ごした。記憶にあるのはドラゴンボールを全巻読んだこと。友達と会わなかったこと。そういうほんの少しの記憶を書いた。後は、あのすべてを飲み込む津波の映像のおぞましさを覚えている。それだけ。多分ぼくも忘れていっているのだ。

それでも震災のことはずっと心の片隅にある。安堵して息を吐いた覚えはない。それは辛く苦しい時間が続いたわけではなかったからだと思う。ドラゴンボールを読んだことがまず思い出されるのは、その中でも楽しさを掴み取ったからだ。辛く苦しく息の詰まる時間が続けば、「終息」に安堵し目の前に広がるきらきらとした景色に飛びつき、楽しい日々を取り戻そうとするだろう。暗い過去よりも明るい未来に目を向けるだろう。そうして忘れていいくのだ。震災以後、日常のすばらしさを謳うマンガや小説が増えたように感じるのもその為だろう。一瞬で失われる当たり前の日常を大切にしようということ以上に、どうにか「楽しい日々」に戻ろうとする人間の必死な様を浮かべる。それは決して悪いことではない。しかしその日常のそばに常に災禍が潜んでいることを忘れなければ。

潜んでなどいない。覆っているだけだ。

だから暗い中にもどうにか明るい何かを見つけるということは大事だ。振り返ったときにそこに光がなければ、何も見えない。振り返ることも億劫だ。だからそこにどうにか光を灯しておくことは重要だ。今、娯楽はとても大事だ。これからも続いていく災禍を忘れないためにも。できればその明かりが現在の足下まで照らしていたらいい。何か明るさを楽しさをささやかな幸せを見つけておきたい。今だからこそ。それは些細なものでいい。
料理がおいしかったとか、料理を失敗してなんだか笑けてきたとか。変な鳴き声のカラスがいたなあとか、もう蝉が鳴いているとか、大切な人に手紙を書いてみるとか。aikoのサブスク解禁うれしかったなあとか、あつ森面白いなとか、プリキュア映画配信最高とか、よしドストエフスキー読むぞとか、テラハ休止してる内に追いつこうとか。何でもいいのだけれど、振り返りたい記憶を残しておけばそれが光になって、過去を照らしてくれるだろう。

過去?過ぎ去るものなんてない。今が繰り返されるだけだ。

だからそれは過去ではなく、今そこにある災禍であることを覚えていられるだろう。昔よりも今の方が触れられる娯楽の幅は広いと思う。溢れる娯楽の中だからこそ、持てる希望だ。

ドラゴンボールと聞く度に、2011年を思い出す。それは決して悪い感覚ではない。ドラゴンボールが純粋に楽しめなくなるわけでもない。むしろ純粋に楽しんだからこそ、ぼくは2011年を思い出すのだ。

いい映画を観たとき、世界の見え方が変わることがある。映画が好きな人は知っているだろう。ぼくは「エンドレスワルツ」を新宿で観たとき、映画館を出ると世界が変わって見えた。映画を観るとき眼鏡をかけるのだけれど、その世界を逃してしまいそうで眼鏡を外せずに一日を過ごした。「親密さ」を観たときもそうだ。「いい映画」というのは無論ハッピーな映画という意味ではない。どんなに悲惨なことが描かれていても、世界が違って見えるものを「いい映画」というのだと思う。その体験は映画の中に自分が生きているような感覚に近い。映画が自分の生活へと続いていくような。「fin」と映されても映画は終わっていないのだ。私の生活がまたその映画の続きなのだ。そう確かに思えるのがいい映画なのだと思う。

9.11のときも、3.11のときも、「映画みたい」と思った人は大勢いるだろう。それを「いい」と称することはできないけれど、「いい映画」を観た後の解像度で、世界を見ていよう。違って見える世界でまた選択をしよう。今灯した光が光源となって、その先にいい映画が流れる様を浮かべながら。

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