テラスハウスのこと

「面白さ」や、「有名になること」やらは果たしてそれほどまでの価値があるのだろうか。自分の身体や生活や生命を危険に曝すほどの価値が。

リアリティショーの面白さって、リアルなことにあるんじゃなくて、切り取り方次第でどんな生活からもフィクションを紡げるという、編集にあると思っている。そうじゃなきゃ人の生活なんて見ていられない。フィクションであるということに安心して、ぼくはやっと人間を面白がる。その人個人というよりは、人間って面白いなって。テラハの話。一瞬見ていたのだけれど、最近は見ていなかった。見ていたら今こうして文章を書いてはいられなかったかもしれない。

なんで見るのが段々億劫になっていったかと振り返ってみる。VTRではテラスハウスの住人たちが、スタジオの芸能人たちを軽く批判していた。心ない言葉を彼らは言うけれど気にしなくていいと住人たちは互いに確かめあっていた。スタジオに戻ると、芸能人は喧嘩腰で、それはバラエティの演出としては正解なのだろうけど、何か違和感を感じた。

そのシーンを映す意図は何だったのだろう。住人たちの中で完結していた世界に、新たな対抗軸を作る行為に何の意図があったのだろう。「世界」をより広くすることに。
テレビマンとして、より多くの人に評価されることを目指すというのは自然なことかもしれない。しかしその対抗軸を作る演出は結果的に失敗だったように思える。テラスハウスという限定された空間の中で世界が完結しているという嘘が、この番組の面白さのひとつなのだから。

その「バラエティの正解」の中には、お前らを面白くしてやっているのはこの番組だぞというニュアンスがあった。演出によって見られるものにしてやっているのだ、感謝しろという視点があった。それからお前らを有名にしてやったのはこの番組だぞというニュアンスもあって、こないだラジオで若林が言っていた「今日活躍出来なかったらもう番組呼ばれないかもしれませんよ」っていう台本に違和感があるという話とも通じている気がする。それは視聴者も感じている違和感で、要するに「バラエティの正解」が正解じゃなくなってきているのだと思う。
「面白さ」や「有名になるということ」やらはそれほどまでに価値があるものなのだろうか。価値はあると思う。しかしそこに上下関係を作るほどの価値があるとは思えないのだ。

それから徳井がいなくなったことは大きかった。そこから悪口の濃度が上がったというか、バランスが崩れたような気がしたのだ。端的に言えば、そこまで面白く思えなくなっていって、見るのを止めたのだった。だからその後のことは知らない。あのバランスの崩れたように見えたスタジオと、そこに置かれた対抗軸、住人とスタジオの間にそっと引かれた線を思いだす。スタジオが視聴者を代表しているという演出と共に。一度引かれたその対抗軸が、その見えない線が、視聴者の行き過ぎた言葉に繋がっているのではないかと。

「台本はありません」という言葉に罪はあるだろうか。それはここに嘘はありませんと同義ではない。そこに妙があるのではないか。映画「愛のむきだし」は「この物語は事実にもとづいている」という文言から始まる。そこから繰り広げられる荒唐無稽なフィクション。そういう視点で「台本はない」という言葉を捉えた方がリアリティショーは何倍も面白く見れると思う。

「リアリティショー」とは、「現実のショー」という意味ではなく、「現実らしいショー」という意味だと思う。この微妙な塩梅が面白いのだし、その曖昧さがなければテラハは面白くないだろう。「ウソでしょー」と呟きながら、ナナメに見るのがテラハの面白さだと思っていた。だからそれを現実のこととして受け止め、あたかも自分がその人の知り合いかのように偉そうに諭すのはとても不思議だ。それすらもフィクションめいている。フィクションなのかもしれない。彼らなりの。
しかし演出されない言葉はそのままに人を傷つける。だから受け手が演出して身を守ることも大事だ。これはフィクションなのだから、自分に都合のよいように演出すればいい。誰かを傷つけようと、いやな気持ちにさせようとする言葉に、自分のためになる部分なんてひとつもない。それは「あなたのために言っている」と銘打たれたウソに過ぎない。「あなたのために言っている」という言葉で演出されたフィクションに過ぎない。「あなたのために言っている」という態度が、よりその人に届きやすい言葉ならば、そう彼らは演出するだろう。自分の言葉が影響を与えたなら彼らの演出は成功だ。そんなつまらないフィクションに出演する必要はない。ドラマや映画や小説で「あなたのために言っている」と発した登場人物が本当に「あなたのために言っていた」ことなんて一度もないのではないだろうか。それは責任のなすりつけに過ぎない。自分の言葉の責任を相手にとらせるひどい行いだ。

自分で自分の物語を紡げばいい。自分で自分のフィクションを演出すればいい。SNSに限らず、この世界には暴力が溢れている。SNSができる前から「あなたのために言っている」という言葉が何度も使われてきたように。
そんなくだらない吐き溜めみたいな世界でも、生きていてほしいというぼくの身勝手な暴力だけは許してほしい。「生きていてほしい」だって暴力なように、「誰も傷つけない笑い」なんてないように、言葉は暴力で、人間はみんな間違えていて、その不器用さこそが人間らしさで、ぼくはその不器用な人がとても好きだ。

テラスハウスは夢を売っている。恋愛のための場所、キラキラとした世界、昨日まで素人だった人が一夜にして有名人になる。自分が物語の中にいるような感覚、このシェアハウスの中にいる限り誰もが主人公であるという夢。(本当にはシェアハウスにいなくても誰もが主人公なのだし、演出された瞬間「脇役」という、人生で自分がなり得ない登場人物になったりするのだが)
有名になるための手段としてそれは有効だ。そのために生活を売る。生活と夢の等価交換。(この二つが等価であるかは今は置いておく。そもそも等価なものなんてないだろうし。)それで取引は終了だろうか。その後、提供された「生活」から引き出された演出に対し、テレビは対価を払っているのだろうか。その演出について回る世間の目、心ない言葉、それに個人が曝されるということ。それに見合うだけの対価をテレビは払っているのだろうか。「有名」になるというのはそれ程のことなのだろうか。

演出というものが、その場面だけでなく世間までも演出し得るということを自覚し、常に批判的に捉えることをテレビはしているだろうか。「とんねるずのみなさんのおかげでした。」がつまらなくなっていったのは世間とのズレに大きな要因があると思う。それは演出と世間が地続きであることへの無自覚が引き起こしたものなのではないだろうか。例えば、終わり近くに登場した保毛尾田保毛男のような。あれは二年前。逆にヤラセ演出で番組が終了に追い込まれることは何度もあった。あれもまた世間がテレビの見方がわからなくなっているいい例だ。それは世間が本当らしく作りこまれたそれを信じ、自分たちが演出されていることに無自覚故に起こるのだろう。双方に無自覚で、批判的に捉えようとする態度が欠如していっている気がする。

最初に言った、「そっと引かれた線」はスタジオの向こう、そのまま地続きな世間にまでたどり着き、その線上に放たれた言葉が直接、個人を傷つける。なんと恐ろしい、無自覚な演出だろう。

ニュースで何度も目にした、カットされ抽出された市民の意見。政治家の発言。芸能人の行動。バラエティでも同じだ。それが面白さだ。編集の妙だ。だからそれは同時に恐ろしさでもあるのだ。ヤラセ演出で番組が終了に追い込まれることと、今回の死の問題は根っこが同じだと思う。或いはテレビの面白さについても。信じていたから裏切られたような気がする。そうしてヤラセに憤る。たぶん、「信じ方」というのを信仰が苦手な多くの日本人は知らないのかもしれない。テレビを信じると、神を信じるではちがうように、信じるにも色々な質がある。でも文字通り同じ「信じる」という言葉で、疑いを排除し、「信じて」しまっている人が多いのだろう。何度テレビの演出が問題になったって、そういった人々は信じ続けるらしい。

テレビは信じたフリをして楽しむという態度がいいのではないか。ナナメの視点を持った方が面白い。マッスグにものを見続ければ、目を痛め、自分を傷めることにもなる。「部屋を明るくして、テレビから離れて見てください。」というテロップをより広い意味でしっかりと受け止めたい。テレビを信じ、マッスグに意見を述べ、強迫観念に囚われているかのように誹謗中傷を飽きもせず書き込み、或いは声を出す彼らはポリゴンショックにやられているのかもしれない。テレビの見方がわからず、自分すらも痛めているのだ。

「部屋を明るくして、テレビから離れて見てください。」

自分を痛めないためにも、テレビをより楽しむためにも、少し角度を変えることをしてほしい。演出というのは物事をあるひとつの側面から見せることが可能だ。多くのテレビ番組がそうだろう。だから「裏の顔」なんて言葉が出てくるのだ。それにすべての角度から人間や物事を照らし出すなんてことは不可能だろう。映されたものの中には常に映されなかったものがある。一人一人が生きている限り、一人一人に色々な表情があって、様々な瞬間があって、一概に一人の人間を捉えることなんてできない。映像に限らずどんな人間にも知らない瞬間が溢れている。だから人間は面白く、だから人間は難しい。  生きている限り。


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