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シルクロードの歴史15『モンゴル人とシルクロード-ポーロとバットゥータ-』

*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。


1.マルコ・ポーロ


 マルコ・ポーロはヴェネツィア生まれの商人で、父親らと共に新しい教皇グレゴリウス10世の手紙を、元を建てたフビライの元に届け、マルコはそこでフビライと交流し外交官として雇われ東南アジアや南アジアに派遣されたとされる。

マルコ・ポーロ

 彼は帰国ついでに元から中東のイルハン国の王家へ嫁ぐ人物を送り届け、ヴェネツィアに戻った後に色々あって捕虜となってしまい、牢獄で居合わせた作家ルスティチェッロがポーロの経験を「東方見聞録」として出版した。

 これにより東洋の情勢がヨーロッパに知れ、後のヨーロッパが利益を求めてアジアやアフリカへ進出した大航海時代に影響を与えたとされ、その大航海時代のなかで新しくアメリカ大陸などが発見されることとなり、マルコ・ポーロが世界のその後に与えた影響は世界史上の人物の中でもトップ100に確実に入るほどに非常に大きいといえ、その知名度は非常に大きい。

東方見聞録

 東方見聞録の内容はまずニッコロとマテオというヴェネツィア商人の兄弟がブルガール、ウケク、ブハラなどモンゴル勢力の大都市を通ってモンゴルの皇帝で元王朝の初代皇帝クビライに謁見して持てなされる所から始まり、彼らはヨーロッパの政治制度や教会、教育などについてを話し、そこで教皇に要請してキリスト教の教育者を派遣するように頼まれることとなる。

クビライ帝

 しかし、兄弟が帰ると当時は肝心の教皇が空位で、そこで兄弟は家に残してきていたニッコロの息子マルコ、つまり"マルコ・ポーロ"を追加した三人はクビライへの状況説明のために再出発するがそこで教皇が就任、その手紙を携えてクビライに謁見を行い、その後、マルコは元王朝の中で外交官として東南アジアやインド洋に赴いて働いた。

 しかし、マルコはヨーロッパへの帰還を要請、当初、認められなかったものの、最終的にはカイドゥが中央アジアでクビライに反乱してチャガタイ・ハン国を独立させたことで、そこを通れなくなった中東のモンゴル国家イルハン朝の王の妃を海路で送り届ける任務を請け負い、マルコは旅に出てから24年が経った1295年にヴェネツィアに帰還するという所で東方見聞録の旅の内容は終わりである。

 東方見聞録には途上で訪れた土地の情報が多く記録され近代以前のユーラシアの様々な情報を今に伝える書物でもあり、これらは土地の文化の他に貨幣や単位、交通網、言語、楽器、建築構造、モニュメント的なもの、名産の宝石などまでも記録していて、単なる旅行記録だけでなく社会科学や民俗学的な要素も含んでいた。

ポーロを驚かせた交鈔という紙幣

 これらの詳細な情報は従来のヨーロッパ人が持っていた「マッパ・ムンディ」と呼ばれるエルサレムを中心にヨーロッパ、アジア、アフリカがあるという世界観を一新し、歴史家イシードルス以来受け継がれてきた化け物が割拠するアジアという世界観も破壊、コロンブスは東方見聞録の情報に惹かれて王に交渉して航海を行ってアメリカ大陸への進出を開始させた。

マッパ・ムンディ

2.イブン・バットゥータ


 また、ヨーロッパからではなく中東から東洋に行ったイブン・バットゥータという人物もおり、この人物の話は、モンゴル時代のシルクロードの様子を象徴するようなものである。

イブン・バットゥータ

 バットゥータはマリーン朝モロッコ出身で、まずイスラム教において行われる聖地メッカへの巡礼、つまり「ハッジ」のためにザイヤーン朝アルジェリアとハフス朝チュニジアを通過、マムルーク朝エジプトを経て、メッカに辿り着き、以降はイランやイラクを支配していたモンゴルの構成国で完全にイスラム王朝と化していたイル・ハン朝に赴いた。

現在のメッカの祈りの様子

 その後にラスール朝イエメンを通ってアダル・スルタン国やキルワ王国などアフリカ東部を周ってオマーンからメッカへ戻り、そのまま、北上、ジェノヴァの船に乗せてもらいイルハン国の属国でマムルークによって治められるイスラム王朝ルーム・セルジューク朝が統治するトルコに到達した。

タンザニアのキルワ遺跡

 そこから黒海を通ってキプチャク・ハン国領のクリミアに行き、領内のマジャルやブルガル、アストラハンなどの大都市を回った後にウズベク・ハンの妃でキプチャクハン国の同盟国であるビザンツの姫である人物が出産のために、ビザンツに一旦帰るのに同行した。

ブルガールの遺跡

 ここで彼は初めてキリスト教国家に入り、そこで皇帝のアンドロニコス3世に謁見し、一旦、ウズベク・ハン王の元に戻った後には東に進み、キプチャク・ハン国と同じくモンゴルの構成国の一つであるチャガタイ・ハン国のサマルカンド、ブハラなどを周りタルマシリン王に謁見した。

現在のサマルカンドの街並み

 そこからインドのデリー・スルターン朝に到達して、ムハンマド・ビン・トゥグルク王に謁見、そこで裁判官となり、後に元への使節に任命されるが色々あって南インドの小国にとどまるが、結局出発、しかし、立ち寄ったモルディブでも裁判官をやらされるがここも結局、再出発して南インドに戻り、ベンガル地方やスマトラ島のサムドラ・パサイなどを経て元の泉州に至った。

現在のデリーの街並み

 バットゥータは中国で似顔絵、絹織物、磁器などの技術やスモモやスイカなどの果物、中華料理などの食べ物、そしてヨーロッパや中東では考えられない金銀銅ではないのに価値を持つ紙幣システム、モンゴル人による元の支配下に入った中国の様子について記録を残すこととなる。

現在の泉州市
泉州の鶏肉料理

 当時の泉州でもイスラム教徒のコミュニティがあり、広州の後に行った福州では同じくモロッコ国内のセウタ出身の人々が商人として財をなしており、バットゥータと福州の商人であるブシリーは二人で杭州に進み、そこでイスラム教徒のコミュニティを発見、暫くエジプト系中国人の家に居候し、京杭大運河を上りデリー・スルターン朝の使節としてトゴン・テムルに謁見した。

ニュース映像にある現在の杭州市

 その後は泉州に戻るが、モロッコへの帰還を決めインド、中東の旅を開始、しかしこの時期にはイルハン国が崩壊、さらに黒死病の大流行が世界中で始まっており、モロッコに帰還するも数日後にはカスティーリャ王国、後のスペインのアルフォンソ11世がモロッコの港町ジブラルタルへの侵略を仄めかし、これに対抗するためのスパイとしてヨーロッパに出航した。

当時のスペインの中心都市トレドの現在

 しかし、時は黒死病の時代で、アルフォンソは病死し侵略計画は消滅、結局、スペイン各地で観光を楽しんでから、モロッコの首都マラケシュに戻るが、マラケシュは黒死病や新首都の建設などで廃墟になっていた。

 その後すぐに新首都フェズを出て移り住み、そこから駱駝に乗ったキャラバンに参加して、当時金の輸出などで大いに栄えていたイスラム王朝マリ帝国の町ウアラタに至り、マリ帝国の首都に到達するとスライマーン王に謁見した。

マリ帝国の「泥のモスク」

 そこからサハラ交易で栄えたソンガイ帝国の首都ガオに移り、その後に奴隷を運ぶ巨大キャラバンに参加するが、モロッコ王から帰還命令が出たことで、モロッコに戻り、そこで「旅行記」を記した。

 また、旅行記の中でバットゥータはイスラム諸国の中でも、マリなどの熱帯雨林地域の国での肌の露出や、チュルク系・モンゴル系など東洋系の遊牧民達では女性の地位が高い事など、様々なカルチャーショックを受けている。

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