ナンバー2人物史 凡庸なトップを覇者にさせた名宰相 管仲
管仲(かんちゅう)は、中国の春秋時代に斉の国の宰相として活躍した政治家で、今から2600年以上も前の人です。凡庸な君主に過ぎなかった桓公を覇者に押し上げた中国の歴史上屈指の名宰相と評価されている人物です。
管仲自身のことは知らなくても、「管鮑の交わり」や「衣食足りて礼節を知る」という言葉を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。
管仲の実績を簡潔に解説すると、弱小だった斉の国の宰相として、内政改革や外交戦略を展開し、斉を強国にし、君主である桓公を中原の覇者にしたというものです。
名宰相として評価が高い管仲ですが、後年、孔子は全面的には支持しませんでしたし、諸葛孔明は羨望の対象としているところも興味深いです。
管仲の人物史から得られること
生い立ち~立身
管仲自身は身分が低く、貧しい家の生まれで、若い頃は幼馴染の鮑叔牙(ほうしゅくが)と商売をして過ごしていました。鮑叔牙は生涯の友人として付き合っていますが、若い頃から管仲の人並み外れた才能を見抜いていて、いずれ国政を担える大人物になると思っていたそうです。
商売をしていた管仲と鮑叔牙でしたが、仕官をして身を立てたいと考え、二人は斉の国に入り、当時の13代斉王は釐公(きこう)の元、管仲は釐公の公子糾に世話役として仕え、鮑叔牙もまた公子小白(後の桓公)に仕えることになります。
後継者争いに巻き込まれる
釐公が没すると、長男の諸児(しょげい)が14代斉王として後を継ぎ、襄公(じょうこう)と名乗るようになります。襄公は暴虐な君主で、とかく無道な振る舞いが多く、結局、いとこにあたる公孫無知に殺されてしまいます。襄公の跡継ぎとなる可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔牙と小白も莒に逃れることになります。
その後、その公孫無知も恨みを抱く者たちの手によって殺され、王座が空席となり、斉の国内では残った二人の公子のうち、糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで議論が二分されます。
斉国の重臣会議で小白が後継ぎに相応しいという結論に至り、小白の元に使者が送られます。この行動に対して管仲は我が公子の擁立を企て、帰国を急ぐ小白軍一行を襲撃し、小白を管仲自ら弓で討ち取ります。小白が倒れたことを確認し、安心しきった管仲は糾を伴って悠々と帰国しますが、なんとすでに小白が帰国しており、斉王に擁立されていました。小白に弓は確かに当たっていたものの、帯の止め金によって命拾いしていたのです。
こうして後継者争いは小白の勝利に終わり、15代斉王、桓公と名乗るようになります。管仲の擁立していた糾も殺されてしまい、管仲の処分の問題が残りました。
親友の鮑叔牙の進言により、処分を免れる
新たに斉王となった桓公にとってみれば、管仲は敵側として自分の命を狙った憎い存在ですから殺してしまおうと考えたのも無理はありません。そこで管仲の親友である鮑叔牙が桓公に管仲の処分を思い止まらせます。
「自分は幸いにもわが君に従うことができ、わが君はついに斉王となりました。しかしながら、これから先のことを考えてみると、もはや自分には荷が重いのが正直な気持ちです。わが君が斉という一国だけを統治するつもりなら、私でも十分かもしれませんが、わが君が天下の覇者を望まれるのであれば、管仲をおいて適任者はいません。管仲を重用する国は必ず天下に重きをなします。是非とも管仲を用いるべきです。」
桓公としても、最も信頼する鮑叔牙の意見とあれば聞かない訳にはいかないので、管仲を処分することは止めました。
斉王桓公、管仲の見識に敬服し、宰相に任命する
鮑叔牙のとりなしで管仲に引見した桓公は、あらためて管仲の見識に感嘆し、宰相に任命することとしました。
管仲の政治の特徴は、国家を強大にさせるには先ずは人民の生活安定を図ることで、生活を安定させることが人民の道徳意識を高めることに繋がり、これが国家存立と国力を高めるための基礎となるというものでした。後年、「衣食足りて礼節を知る」と呼ばれる考え方です。
管仲の具体的な政策としてはつぎの5項目が主軸です。
・農業の保護と奨励
・塩、金、その他重要産業の国家管理
・均衝財政の維持
・物資の流通ならびに物価の調整
・税制および兵役の整備
簡潔に言えば、経済を活性化し、民衆の生活を安定させ、国庫の充実を図るというものです。現代では当たり前と思える政策かもしれませんが、2600年前の当時にあっては、きわめて先見性に富む政策だったことがわかると思います。管仲が行った政策は見事に成果を上げ、斉国は国力を増大することができました。
国を支える4本の綱
管仲の政策の基礎は民衆の生活安定にあり、それを具体化するための政策は上記5項目でした。それでは民衆の生活安定がどうして道徳意識の高まりに繋がるのでしょうか。
国家は4本の綱によって維持されていると管仲は考えます。4本のうち、1本が切れると安定を欠き、2本切れると危機に瀕し、3本切れると転覆する。4本とも切れると滅亡してしまうというものです。
安定を欠いても、取り戻すことはできる。危機に瀕しても脱することができる。けれど、滅亡してしまえばどうしようもない。
では、4本の綱とは何かというと
・礼・・節度を守ること
・義・・自己宣伝しないこと
・廉・・自己の過ちを隠さないこと
・恥・・他人の悪事にひきずられないこと
皆が節度を守っているなら秩序は保たれる。必要以上に事実を誇張しなければ、嘘偽りはなくなる。自分の犯した過ちを隠す者がいなくなれば、不正は自ずと影をひそめる。他人が企む悪事にひきずられる者がいなければ、大それた悪事も企みようがないというものです。
政治が生活安定を保障していれば、自ずと道徳意識が高まるというのは納得感があります。
まず与えよという考え方
民衆の願いを察して、それを叶えてやること。これが政治の要諦であると管仲は言います。民衆の意向を無視した政治は必ず行き詰まると考えていたのです。
・民衆は誰しも貧乏を嫌がる。
だから君主は民衆の生活を豊かにしなければならない。
・民衆は誰しも災難を逃れたい。
だから君主は民衆の安全をはからなければならない。
・民衆は誰しも一族滅亡の憂き目に遭いたくない。
だから君主は民衆の繁栄をはからなければならない。
民衆の心をつかもうとせず、ただ刑罰によって威圧し服従させようとするのは不可能であり、民衆が服従しないからといって刑罰を厳しくし、むやみに人を処刑して威嚇するのは自ら墓穴を掘るようなもの。「まず与えよ」には民衆心理の深い洞察があったことがわかります。
指導者の条件
政策的には成果を上げた管仲ですが、一方で為政者にとって必要な徳についても説いていました。
・君主にしっかりした理念があってこそ禍いを未然に防ぐことができる
・賢臣がいないと思い悩む前に、まず臣下を使いこなしているかを反省せよ
・物資が少ないと案ずる前に、まず物資が適切に配分されているかどうかを考慮せよ
状況に応じて対策を立てることが指導者の条件であり、公平無私な態度こそが為政者としての徳であると管仲は言います。
為政者が優柔不断であれば対策は常に後手に回り、私利私欲に熱心となれば民衆の心が離れていく、無能な好臣を用いていれば、心ある臣下から見限られてしまう。現代にも通じる考え方と言えます。
信義を重んじた外交戦略
国力を高めた斉国ですが、管仲はそうした実力を持ちながらも力で他国をねじ伏せようとは考えませんでした。
例えば、宿敵であった魯国を打ち破った後に魯国と領土割譲により和議を行う会合に際して、一瞬の隙をついて魯国の将軍が桓公に匕首(あいくち)を突き付けて、領土返還を求めたことがありました。その場では返還を約束せざるを得なかったのが口惜しく、後に桓公はこの約束を反故にし、その将軍を殺してしまおうと考えました。
それを聞いた管仲は桓公を諫めます。「脅迫されてやむを得なかったとはいえ、約束を反故にすれば多くの諸侯の信頼を損なうことになります。」と言い、領土返還に応じることにした結果、この話は諸国にあっという間に広まり、桓公は信義に厚い大人物であるとの評判が立ちました。その後、諸侯たちは桓公を盟主と仰ぐようになり、覇者の地位を確立することに成功しました。
人材登用に関する戒め
管仲は桓公に人材登用についても意見を述べています。ある時、桓公は「国政を執るにあたり、もっとも憂うべきことは何か」と管仲に尋ねます。その質問に対して管仲は「社鼠でございます」と答えます。社鼠というのはお社に巣くう鼠のことで、腹黒い側近の例えです。
「鼠にとってお社は恰好の住処であり、退治しようにも、いぶせば火事となる恐れがあり、水をかけても壁を台無しにしてしまう恐れがあり、簡単なことではありません。これと同じく君主の側近の中には君主に善悪のけじめを忘れさせ、民衆に対しては君主の後ろ盾をいいことに威張りちらしたり、私腹を肥やそうとする者もいます。そういう者を側近として重用していればやがて国が滅亡します」
管仲は諫言のコツも心得ていたので、鼠という例え話を用いて、やんわりと桓公に腹黒い側近を重用してはならないことを注意していたのです。
管仲亡き後の斉国の衰退
桓公の宰相として40年余りにわたり国政を担っていた管仲ですが、床に臥せるようになり、桓公がそんな管仲を見舞い、もし管仲に万一のことがあったら次の宰相は誰にしたらよいのかと相談します。
桓公は3人の候補者について管仲の意見を聞いたところいずれの人物にも反対されます。管仲の死後、桓公はその言いつけを守り、3人を追放することにしましたが、国政に滞りが見えたことでその3人を呼び戻し、重臣として再度登用してしまいます。
その結果、管仲の懸念どおりこの3人は権力を思うがままに操るようになり、斉国の政治は揺らぐことになります。管仲のように諫言してくれる存在はなく、もともと無類の女好きで軽率な桓公は重しが取れたように政治をないがしろにしてしまったことも要因です。
そんな君主桓公の死後、斉国では権力闘争が始まり、国政は混乱をきわめることになり、衰退の道を進んでいくことになりました。
解説
管仲という名宰相の話を聞いてどんな感想をお持ちになられたでしょうか。
後継者争いに勝ち、君主となっても君主自身に明確なビジョンと先見性や実行力がなければ適切な国家運営などできなかったでしょう。桓公は管仲という名宰相の存在があってこその君主だったのです。
ところで、本稿では触れませんでしたが、管仲は必ずしも聖人君子ではありませんでした。宰相というポジションを維持するために、自分の存在を疎ましく思う周囲の人間を牽制するために桓公に爵位を求めたり、莫大な財産を求めたりしています。徹底して保身をしたのです。とはいえ、宰相としての政治では成果を上げ続けていたので、民衆も管仲を批判するようなことはなかったそうです。
冒頭で、論語で有名な孔子が管仲に対してあまりいい評価をしていないという話をしましたが、そもそも管仲は自分の主君である糾が殺された時点で殉死すべき立場にあり、友人の推薦があったとはいえ敵側に寝返ることなど仁や義に足りない人物だと考えたからだと言われています。確かに、そういう面では管仲は節操のない人間と思われても仕方がなかったかもしれません。
ただ、当時弱小国家だった斉の国を富ませ、凡庸な君主である桓公を覇者にした事実にはさすがの孔子も最大限の評価をしています。
私自身は管仲は国と君主の力を借りて、管仲自身が描く理想の国作りがしたかったのだろうと思っています。私の研究不足かもしれませんが、管仲は君主である桓公に対して心からの尊敬や共感、愛情を抱いているようには感じないからです。
経営者の立場で管仲の話を聞くと複雑な心境になる方もいるのかもしれません。自分が作った会社を舞台に有能な人物が己の理想に邁進する姿に違和感を覚えるのではないでしょうか。
もちろんその活躍による反射的利益で会社が発展し、社長も対外的に有能な経営者と見なされるのであれば、Win-Winという関係性でよいと考える場合もあるでしょう。このあたりは捉え方の問題なので、良い悪いはありません。
ただ、仮に管仲が己の理想を大事にしていたとしても、一国を治められればそれで十分と考えていた桓公に中原の覇者になるという大きな目標を与え、目線を上げさせたことは補佐役として期待以上の存在だったと思います。
さて、そんな桓公は凡庸な君主であったというのが定説ではあるのですが、違う観点からいうと優れた人物であったとも言えるのではないかと思います。
どんな点であるかというと、
・鮑叔牙という元々いた信頼できる側近が推薦する管仲を意見のとおりに重用したこと
・管仲の唱える政策に異議を述べずに、全面的に任せ切ったこと
・管仲の諫言を聞き入れて、改めていたこと
組織のトップとしてあまり主体性を感じない印象もありますが、桓公もまた自身を凡庸な君主という自覚があったのかもしれません。そして、管仲を信じて任せ切ったという点は素晴らしいことではないかと思います。
国が発展するにつれ、桓公にも慢心したり自信過剰になってしまう時期があったでしょう。
やろうと思えば、能力は高くとも口煩い側近の一人などどうにでもできたはずです。それでも40年にわたって管仲の言葉を真摯に受け止め、管仲を全面的に信頼し、最後の最後まで意見を求めていたのですから、簡単に真似できないと思われるのです。そういう意味では、桓公は有能な人材を操縦できた優れたトップでもあると言えるでしょう。
もし自分の経営する会社にとびきり有能な人材が入社してきたらどう付き合うか考えてみると管仲の話から参考になることもあるかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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