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皇居前広場を歩く①(年表を作ってみた)

僕は、散歩が好きで、いつも「節電公園」と勝手に自分が呼んでいる公園の同じところを反時計回りでグルグル回っているのですが、


史跡を訪ねて、勝手に感傷に浸るのも好きで、noteに書くために遠い記憶を引っ張りだし、こんなことを書いてみました。

そのGHQを後にして、皇居前広場に向かいます。だだっ広くて気持ちいい場所ですよね。

田舎者の自分からすると、首都の象徴みたいな場所です。排気ガスが無ければ、毎夜歩いて気持ち良さそうですね。

ただ、普通の公園と違って、この広場でも、日本史上の色々な出来事や事件が起きています。

当時のことに思いを馳せ、感傷に浸れる場所ということです。

まずは、皇居前広場について調べていたら、「yo」さんの記事とNHKさんの記事をみつけました。紹介させていただくとともに、書いてある事件の情報を一部年表に引用させていただいております。(yoさんの記事には、終戦以前の情報がのっていました。初期の検索ではみつからなかった情報でした。)


元々大名屋敷で、維新後に宮城広場となり、戦前は神聖な場所であったこの広場が、戦後の混乱とともに一時、自由広場に変貌します。

終戦後は、集会や草野球などが出来たみたいです。夜は行ったことがないのですが素敵な場所なのでしょう。

NHKの作った年表に事象を加筆して、流れをみてみます。
大袈裟にいうと、経済事情、政治、労働問題、独立、朝鮮戦争に翻弄される「広場」の姿が一目瞭然です。


1923.9.1 
 関東大震災での避難場所(30万人)
1940.11.10
 紀元2600年記念式典(参加者53000人)
1945.8 終戦。広場で自決者累計13人
1946.2.17   預金封鎖
1946.5.1 
 11年ぶりのメーデー 50万人参加
1946.5.12
 世田谷「米よこせ大会」参加者113人が皇居の台所に入る。
1946.5.19 
 食糧メーデー 25万人参加
1946.5.24
 食糧問題に関するお言葉(昭和天皇)
1946.6.7
 食糧非常時突破に関する声明(閣議決定)
1946.11.3 新憲法公布
1947.2.1 
 マッカーサーからスト中止指令
1947.5    片山内閣(社会党、民主党連立)
1948.3 芦田内閣(民主党、社会党連立)
1948.10 吉田内閣(自由党)
1949.3 ドッジライン(デフレ政策)
1949.4 単一為替レート(1ドル360円)
1949  全日本ボーイスカウト大会
1950.5.1  最後のメーデー(60万人)
1950.6.24
 皇居前広場での集会、デモ禁止
1950.6.25 朝鮮戦争勃発
1950.8 
 警察予備隊(後の自衛隊)創設
1951.9.8
 サンフランシスコ平和条約締結
1952.5.1
 血のメーデー事件(死者2名 逮捕者1200名)
1952.5.3
 平和条約記念式典

関東大震災のときには避難場所になり多くの人々を救い、
今は日本武道館が担っている国家的行事のときの役割を、広場が担っていた様子がうかがわれます。

終戦で、インフレと食糧危機が激化します。数年は、食糧危機がひどかったみたいですね。

世田谷区民が宮内庁の台所に乱入、
数十万人が集会に参加、
天皇の二回目のラジオ放送まで行われています。
広場に沢山の人が集まり、窮状を訴えたということですかね。

その後、1950年5月にメーデーの会場として、最大60万人が集まったということで。おそらく、日本史上、日本人が一ヶ所に集まった最高記録なのではないかと想像します。今は、メーデーは、確か日比谷公園で結構盛大に行われているはずです。

※関ヶ原合戦に20万人、安保闘争時に国会前に33万人が集まったという数字を確認しましたが、1950年メーデーの60万人には及ばない模様。

不謹慎にはなってしまいますが、タイムマシンがあったら、
紀元2600年式典、終戦の日、食糧メーデーの日、60万人メーデーの日に、近くで人々の熱気に触れてみたかったなどと思いました。

ひとまず、ここで終わることとします。

記事の出来にもよりますが、もう少し史実を深追いするか、次の桜田門に進むか慌てず、散歩しながら決めたいと思っています。















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