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ふたしき
2023年8月6日 22:51
それは風に乗る蒲公英の綿毛のように、ふわりふわりと舞い降りて、無色の世界に私を宿した。 目の前を覆っていた霧が形や色を成して、遥か遠い現世を模る。 気がつけば私は、草原に膝をついた状態で前方をぼんやりと見ていた。 柔らかな草が腿をなでる。くすぐったい。立ちあがりながら自分の体を見やると、なにも身に着けていないことがわかった。 深呼吸をする。青い匂い。風が最後の仕上げとばかりに、生まれた
2022年12月11日 17:04
私が異変に気付いたのは、夫の死体を運んでいるときだった。 月のない良い夜だった。 あたりは暗く、首から提げたペンダント式のライトが無ければ、まともに歩くこともできなかっただろう。十二月の夜気はどこまでも鋭く砥がれていて、夫の足首を掴む両手の感覚はとうに失われていた。 死体を引きずる私の進路上に現れたのは、青白く光る靄だった。ライトの光が届かない距離にもかかわらず、靄は神秘的な光を纏ってい
2022年9月11日 22:52
ある夏の昼下がりに、私は母の実家を訪れていた。一昨年に祖母が亡くなったことで無人となった家の、家財などの整理にやってきたのだった。 遺品の整理もひと段落ついたので、私は休憩をとることにした。縁側に座り、用意したコップ一杯のぬるい麦茶を一気に飲み干す。こめかみに浮かんだ汗が頬を伝い、顎先で止まって、音もなく私のもとを去っていく。紺のスカートが黒くにじんだ。 家は山奥にあるので、町中に比べれば暑
2022年2月13日 16:13
ある日のことだ。 私はいつものように、広場の片隅に屋台を設置した。人の姿はまばらで、それぞれが思い思いに休日の昼下がりを楽しんでいる。 私が商品を陳列していると、高級そうな衣服を身にまとった、恰幅の良い男がやってきた。後ろをついて歩く使用人と思わしき青年は、気づかわし気に主人の額に浮かぶ汗をぬぐっている。 その日初めてのお客とあって、私は張り切って接客に臨んだ。「ようこそいらっしゃいまし
2022年1月5日 19:41
「ほら、飲んで」 朦朧とする意識の中、黒塊は声の主をたしかめた。砂埃に煙る視界の中には小さな影。 傍に跪く少女が、両手を黒塊に差し出す。手のひらで象る椀の中には水があった。水は先ほど、奴隷商人の男が商品どもに注いで回ったものだ。商人と奴隷の列は数刻ごとに休息をとりながら、オアシスに栄える街を目指していた。ひとり、またひとりと干涸びていく中、これ以上の〈欠品〉は儲けに関わると判断した奴隷商は、貴
2021年11月23日 00:03
「ごめん。俺、好きな人いるから」「そうなんだ……じゃあ、仕方ない……よね」「それに、君とは合わないと思うんだ。その——世界観が」「なにそれ……」 唖然とした表情の女子。これ以上かける言葉もないと思って、無言で立ち去った。なるべく早く、その場から離れたかったから。 世界観が合わないというのは、別に言い訳のための抽象的表現というわけではない。 幼い頃から何故か、俺には世界が歪んで見えた。
2021年11月20日 10:54
傘をひらけばいつも雨。 それも土砂降り。 傘をさそうがささまいが、どのみちびしょ濡れ。 だから僕は傘を使わない。 雨が降るなら降ればいい。たとえそれが止まない雨だとしても。「あんたまたずぶ濡れじゃないの! 傘を使いなさいって言ってるじゃない!」 お母さんが喚く。「仕方ないよ。傘の中も雨なんだから」「そんなわけないでしょ! いい加減うそはやめなさい!」 僕はぐしょぐしょになった
2021年2月19日 22:22
観客席を埋め尽くすヒューマンたち。彼らの発する数万人分の怒号やヤジが空間を埋め尽くす。彼らが睨みつけるリング上では、二体のアンドロイドが死闘を繰り広げていた。両者ともに傷だらけで、黒い機体のアンドロイドに至っては片腕を失っている。それでも、相対する王者の表情に余裕はなかった。 全戦無敗。絶対王者であり、身につけた最新鋭の外躯殻と、その流麗な戦闘スタイルから【白銀姫】と呼ばれる現チャンピオンが今
2021年2月11日 01:00
私だって、最初に気がついたときには「こんなの偶然だ!」と、そう思った。それこそ偶然手に入れたこの封筒に、こんな不思議な力があるだなんて考えてもみなかった。 ある日。学校をサボった私はあてもなく住宅地をぶらぶらと彷徨っていた。 家の近くまで帰ったが、ご近所さんに見つかると親に告げ口されそうで、文字通り二の足を踏んだ私は路地裏を探検することにした。 途中、周りを家に囲まれた空き地のような場所
2021年1月31日 12:42
妻は星になった。 私がそう言うと、相手はたいてい気遣わしげにねぎらいの言葉をかけてくれる。「お子さんもまだ小さいのに……。困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」 あまりに不憫だとばかりにそう言われると、更に心配な思いをさせてしまいそうで、私はこれまでの経緯や複雑な事情まで伝えることを躊躇ってしまう。 私の妻は死んでしまったわけではない。 正真正銘、宇宙に浮かぶ星になったのだ。こ
2021年1月22日 00:10
今年もまた大寒を迎えた。 大寒とは《二十四節気》と呼ばれる季節の区分のひとつだ。一年を十二の節気と十二の中気に分類し、それぞれには季節を表す名前がつけられている。第一の立春に始まり、春夏秋冬を経て二十四番目に大寒を迎え、季節はようやく一巡する。 そんな区切られた時間の中で、俺たちは出会った。 二〇二〇年一月二十日。東京池袋。 夜の繁華街は、冬の名残を惜しむこともなく、連れ歩く若者や、身
2021年1月12日 01:38
鍵を拾った。 表面は錆に覆われており、ひどくねじ曲がってもいて、このような鍵を差し込める錠が存在するとは思えない。 丸く平たい持ち手に凹凸はなく、この鍵がどのようにして生まれ、どのような目的をもって存在しているのか、情報はなにひとつ刻まれてはいない。地図も、紋章も、誰かの肖像も、番号や記号でさえも。 では、この金属片はそもそも鍵などではないのかというと、多分、違う。 そう思うのは、最初に
2020年12月30日 23:58
ある貧しい村の鍛冶屋に、ユルという美しい娘がおりました。 ユルはたいへんな働き者でした。 早くに母を失くしてからというもの、家族の助けになればと、家事に加えて父の仕事もよく手伝いました。あかぎれの痛みに顔をしかめながら、焼けた鉄に槌を振るい、燃え盛る炎に石炭をくべるのです。 真冬のある日、森の中にユルの姿がありました。 昨夜、ユルが神様に祈りを捧げていると、空から降った青い光が森の中に
2020年12月20日 17:19
他人様の家に忍び込むのは、いくつになっても慣れないものだ。 雪の夜、煙突からの侵入を諦めた俺は、そのまま頂上に腰掛けた。足元には粉雪を薄く積もらせた屋根と、それを支える石造りの大きな屋敷が見える。 寒さに震える手で、俺はポケットから一通の手紙を取り出した。 電子メールを印刷した紙の裏に、『プレゼントして欲しいもの』が書かれている。その下には子どもが描いた絵があり、馬鹿でかい建造物の隣で、お