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掌編小説(5)『エピファニー』

 鍵を拾った。
 表面は錆に覆われており、ひどくねじ曲がってもいて、このような鍵を差し込める錠が存在するとは思えない。
 丸く平たい持ち手に凹凸はなく、この鍵がどのようにして生まれ、どのような目的をもって存在しているのか、情報はなにひとつ刻まれてはいない。地図も、紋章も、誰かの肖像も、番号や記号でさえも。
 では、この金属片はそもそも鍵などではないのかというと、多分、違う。
 そう思うのは、最初にこれを拾い上げたときに得た、確信めいた感情があったからだ。
 これは持ち主を未知なる領域に導く鍵だという直感と精神の高揚。それだけが、この針金くずを鍵たらしめていた。
 辺りを見渡す。
 薄暗い世界の中でひとり。
 探し物をしている内に、ずいぶんと面倒な場所に来てしまったらしい。
 果てなどないように見える空間には、星の瞬きに似た光の明滅が満ちている。点在する光はどこまでも広がっていて、まるで宇宙空間に突如として放り込まれたかのような、不安定で不確かな、それでいて妙に冒険心をくすぐられるような気分になった。わくわくしていると言い換えてもいい。
 手始めに、近くにあった光の粒を掴んでみる。物質的な感覚はないが、手のひらを通してじんわりとした熱が伝わってくる。光を自分に引き寄せた。
 結んだ手を開いて、光を覗き込む。光の正体は、鍵穴だった。鍵穴から漏れ出た光が、無数の星々となってそこら中に浮かんでいるようだ。
 向こう側の景色が気になって鍵穴を覗いてみたが、眩しさのあまりすぐに目を離してしまう。鍵穴の先の世界がどのようなものであるか、あらかじめ確認してから開錠しようとした、自らの浅はかさや浅ましさを恥じた。
 さて、ここには先ほど手に入れた鍵がある。使わない手はない。
 早速、曲がりくねった鍵の先端を、鍵穴に差し込んでみる。鍵は抵抗なく光の点に吸い込まれていく。形状に合わせて手をひねったり押したり引いたりしているうちに、ついに鍵は持ち手を残して鍵穴の中に消えた。あとは手首をひねるだけでいい。
 しかしここまできて初めて、鍵を開けることをためらった。
 世界が変わる。そんな予感を前にして、怖気づいてしまったようだ。
 経験というものはすべてが足し算になるとは限らない。知ってしまったことで、何かを損なう危険性だってある。恐れていてはなにも始まりはしないが、始まることに恐れを抱いてしまうと、たちまち足がすくんでしまうのだ。
 後戻りはできるだろうか。そんな考えも頭を過る。
 きっとできるだろう。忘れてしまえばそれで済む。何ごともなかったかのように振る舞って、何も起きなかったと自分を信じ込ませてしまえばいい。
 後で眺めるために、鍵穴はそっと元の場所に戻して、鍵は捨ててしまえばいい。そして「確かにあのとき、自分は鍵を開けようとしたのだ」と、自らを慰めてみてもいい。難しいことなどなにひとつありはしない。
 鍵を掴む指の力が緩んだ。
 そうだ。このままにしておこう。鍵は間違いなく差したのだ。このままにしておけば、これがその証拠になる。
 親指の腹が鍵の持ち手から離れる。人差し指も後に続こうと、いかにも名残惜しそうに平らな表面を撫でる。
 別れの瀬戸際で、指先が動きを止めた。
 微かな感触。凪いだ水面を揺らす、落ち葉が起こしたさざめきのような、微かな感情の芽生え。
 期待。後悔。恐れ。不安。願い。
 意味を伴わない感情の渦が胸の中を満たした。

「それでも、知らないままじゃもったいない」
 自然と口をついたひと言で全てが決まった。
 もう一度、鍵を掴む。今度はぎゅっと。
 錆だらけでねじ曲がった、不格好な鍵。装飾も刻印もありはしない。
 それでも、這いつくばって探しながら見つけたものには違いなかった。
 この鍵で行けるところまで行ってみよう。
 今は不細工に見えるこの鍵も、訪れる変化に研磨され、汗や歯がゆさを刻み込めば、少しは見れたものになるだろう。
 そう信じることにして、勢いづけて鍵を回した。

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