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空を仰ぐように蓮華草は花嵐に揺られていた。
春眠暁を覚えず、春の夜の夢のごとし、この胸に恵風よ、帰れ。
 ドイツの黒い森(シュヴァルツヴァルト)の青野に群生する、ローズピンクの野薔薇のように見初められた蓮華畑。
 山の端から垣間見えた、碧空は二束三文ではない、オリジナルの今日という、日常を成していた。

 紋白蝶と蜆蝶が甘い蜜を吸いに飛び交い、ひらひら、と宙を二組の迷子のように滑走していた。
蓮華草はどこか、揺るぎない、諦念が存在していた。
 永遠の調べのような春方の日中が花々の墓標を包み込む。

 僕はあの夜の残像を思い出した。
 片足の、秘めた合間がきりきり、と切ない音色を刻んでいく。
記憶の、雑記帳のページが乱高下に降ってくる。
 ここに生えている、蓮華草が無残にも芝刈り機によって刈り出され、美しい花々もいつかは無造作に穢されるのだろうか。
 こんな燻り、さっさと忘れた方がいい。
 あれはあいつがやった軽い悪戯だったのだから。

 心を飛ばし、斜め四十五度から、もう一人の僕がうろたえる肖像画を中傷する。
 視界を歪ませるような、ふら付きが止まらなくなる。
 この肢体を細切れに切り裂きたい、と衝動に襲われ、早く静まれ、と誓っても、そう、簡単には倦怠感は移ろうようには消えなかった。

 あの人が隣の民家に挨拶したようだったので、半ば義務的に足をやり、瓦屋根の玄関の前には、首に白いタオルを巻いた、おじいさんとカッポウ着を身に纏った、おばあさんが柚子の入った袋を持って立っていた。
 お喋り好きなおばあさんに頑固なおじいさん。
 まるで昔話みたいだ、と僕は思わず、心の中で小さく笑った。

「あんたは誰かい? 千夏、この子もあんたの子か」
 母の年齢で、中学生の子供がいれば、産んだ年齢は自然と若くなる。
 下手に説明したら後々の悪印象を引き延ばしになる。
 こういうときは黙っておくしかない。

「この子は銀鏡辰一君。千夏さんの長男よ」
「まあまあ、この子の父親はどこに行った?」
 おじいさんの瞳孔に分かり易い、悪意が含まれていた。
「お父さん、いくらなんでも、それは言ったらいかんでしょう。ねえ、辰一君。おばちゃんは辰一君のおじいちゃんの妹になるのよ。私は正子。お父さんは義展っていうの。この人はちょっと変なことを言ったけれど、あんまり気にしないでね」

 この人たちは、ある程度の事情を知っている人なんだろうか、と疑いかかるほど態度がよそよそしかった。
 一点だけ判明した事実がある。
 あまり、僕は歓迎された人間ではない、という点だ。
 ここで相手を不愉快にさせないように努めなければいけない。

「分からないことがあったら、お尋ねしてもよろしいでしょうか。僕はここに初めて来たので、知らないことが多いんです。ここは空気も美味しいし、人の温もりがあって優しいところですね。おばさんも僕を心配してくださって感無量です」
 大人の舌を巻くのには幾分の苦労はない。
 だが、義展さんにはあまり効果がなかったらしく、ろくな大人にならん、と期待外れのそっぽを向かれてしまった。

 あの人はこの僻村でどんな種類の、後ろめたさを置いてきたのだろう。
 すぐに玄関から踵を翻し、雲脚を確認するために桔梗色の空を見上げた。
 心を奪う卑屈さなんて、さっさと忘れてしまえばいい。
「辰一君。やあ、初めまして」
 その朗らかな声に反応して、すぐさま振り返った。

星神楽④ 地球の風景|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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