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他人の幸せを喜べなくてもいい

身構えさせそうなタイトルだけど、そう思う。

「酷い人だ」と感じるだろうか。「冷たい人だ」と捉えるだろうか。実際、「他人の幸せを喜べる人になりましょうね」と言われた事がある。一度ではなく、何度もある。

その人からすれば、喜べる人=心が広くて優しくて清らかな人とのイメージらしい。ならば、喜べない人=心が狭くて優しくなくて汚い人になるのか?

そうとは限らないと思う。

一律にする必要も理由もない

「他人の幸せを喜べる人になりましょう」

簡単に言うが、そもそも「なぜそうならなければいけないか」が分からない。喜べる人もいていいけど、喜べない人がいてもいいじゃないか。

惚気を聞くのが好きな人もいれば、苦手な人もいる。成功体験を聞くのが好きな人もいれば、苦手な人もいる。どちらでもいいはずだ。一律になる必要も理由も特にない。

なのに、苦手だと知られると

『わぁ心が貧しいんだな……』

のように思われがち。

自分調べで、生きてきた中での感覚であって、世の中の大多数が違っていたら、これ以上は読まないでください忘れてください記憶から消してくださいだけど。

あくまで私の人生では、どこか下に見られるというか、みみっちいイメージを持たれるというか、あまり良く感じてもらえなかったし、喜べない時があると知られただけで「そんなんでどうする。優しい人になれ」と怒られたりもした。

優しい人?

ていうか、優しいとはなんだろう。エトナシサラをよく知る人なら分かっているように、私は優しさという漠然とした言葉に自分なりの具体的定義をつけて持っている。

優しい=丁寧

である。何事に対しても丁寧に扱い、振る舞い、過ごせば、受け手には「優しい」と受け取ってもらえる。だから優しいを言い換えると丁寧となる――そう思っている。

この定義で言えば、他人の幸せを喜べる事と優しさは、あまり関係がない。なぜなら、心の中で何をどう思うかは丁寧とは無関係で自由だからだ。

余裕の度合い

そう。

つまり他人の幸せを喜べない事自体は、何も問題はないわけで。あるとすれば、

喜べないからと失礼をするかどうか

ではないだろうか。

喜べない事自体は全然いいけど、表に出して「くそが」や「うざ」や「くだらねー」といった攻撃をしたり、嫌な気持ちにさせるのを分かっていてあえて水を差したり。そういった流れを生み出した時は、叱られても仕方がないと思う。(これにもまた例外はあるけど)

ただ、そうでないのなら叱られる理由も怒られる理由も見下される理由もない。ましてや「喜べる人にならなきゃ」と言われる筋合いもない。

これも私が勝手に考えている事だけど、根本的に他人の幸せを喜べるかどうかは

余裕の度合い

が大きいと思っていて。

例えば、生活がまあまあ安定していたり。今日生きる事に不安が特になかったり。メンタルが弱っていなかったり。何かしらで幸せを感じられていたり。そういった余裕がある状態なら、他人の幸せも喜べるようになりやすい。

一方で、その逆だった場合には、自分でいっぱいいっぱいなんだから、他人の幸せなんて正直知ったこっちゃない。もっと言えばどうだっていい――そういう心情になりやすい。

もちろん、タイプは人それぞれだから、全員がそうだと一括りにはできない前提だけど。余裕がある時は、そりゃ他の人に対して気が回るだろうし。幸せだと言われたら、なんぼでも手を叩いて心から喜べるだろう。

元気があれば、なんでもできるじゃないけど。余裕があれば、そりゃなんでもできるだと思う。

まとめ

結局、何が言いたいか。

それは、タイトルそのまま「他人の幸せを喜べなくてもいいじゃない」だ。喜べるならそれでOKだし。喜べない時があっても、自分を責めなくてもいいんだよという事。

まあ「責めなくていいよ」と言っても都合よく止められないかもしれない。「それができりゃ苦労せん」というのは、私自身が普段から口癖にしている事。だからこその、

責めなくて"も"いい

だと理解してくれると嬉しい。

ただ、他人の幸せを喜べない自分に気づいた時、ふと『そういえばエトナシサラさんがこう言ってたっけな』と思い出してくれたらいいなと。『エトナシサラさんも喜べない時が多い人だって言ってたっけ』と仲間感を覚えてくれたらいいなと。

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