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【コラム】自らの正義に従う生き方 #029

タイトルがとてつもなく重いが、内容はそこそこ重いだけ。結局重いんかい!なるべくわかりやすく書くよう心がけてみる😎


■どこまでも個性


個性ありきの活動・仕事をしている。
この道に入ったのは・・・長いから割愛。
具体的に何をしているかというと・・・長いから割愛。
なぜ個性なのか・・・長いけどなるべく要点で書く。

ほとんど全ての人が世界中で、歴史上で、結構つまらない人生を過ごして死んでいく。ちょっと調べればすぐわかるので、ここは受け入れてほしい。

だけどごく少数の人が、自分の存在価値とか、自分は何者か?と考える。人口の1%もいないように思う。
ただ1%だとしても絶対数で考えるとそこそこの人数になる。
そういう人のほどんとは『自分を生かすために』『誰でもみんなに当てはまる方法論』に飛びつく。当然自分は生かされない。

なら自分って何だ?となると、生物学的にも心理学的にも定義が難しい。というか定まっていない。ただ、自分と他人の違いによって相対的に、比較的に「自分とは何か?」とわかることもある。
を、突き詰めると結局オリジナリティが何か?だけが自分を個性として選別できる基準になる。だいぶ端折っているので乱暴に聞こえるかもしれないけど、乱暴まとめでいいならかなり核心に至っている。
もし他人と同じことの方がより重要なのであれば、人は皆個性なく機械として生まれてきた方がいいと言えることになる。
そんなわけで、自分を生かすために扱う物事は「個性」になる。そして個性の扱い、つまり「方法論」にたけるには『オリジナルの個性を上手に使うための【オリジナルの方法を編み出す】しかない』。オリジナルが汎用性の高い方法で十分に生かされることはない。

これが見出しの「どこまでも個性」の理由。


■事実、個性はバリエーションが多くてわかりにくい


実際問題、われわれの認識は、人と同じことをいくらでも見つけられる。その圧倒的な量からすると「人と違う個性」は矮小に思える。
だけど、ひとつひとつ掘り出し見つけ出し、検証したり、フィードバックするとあまりにも多いということがわかる。

個性といっても強みや才能のようにDOに関係するものもあれば、人格やスタイルのようにBEに関係することもある。そのどちらもを包括する価値やセンスなどもあるし傾向や特性となるとさらに数が増える。
たとえば人格を細かく見ていくと、性格、人間性、人柄など深度が変わった見方もできる。生活で役立たない個性は封印されてしまっていて、いつの間にか存在が忘れられているが、そういうものも掘り出すことはできる。

結論、個性は無数にあり複雑な形をしている

在庫状況を確認しなければコンビニ経営がままならないように、まずやることは蔵から秘蔵物を出して目録を作る。
目録ができたらまず今すぐ使えるものを使う。注目するものもやってみてフィードバックする。これである程度扱いが上手くなる。

しかし、そもそもそれだと、個性に注目せず作ってきたこの現実に対して「使えるものを使う」だけになるので、次は目録の大部分を総合的に使って「自分の現実を自分で作る」ように企てる。
なぜならそれが個性を扱うベースになるからだ。
人の、社会の、誰かの作ったレールはどこまで乗っても誰かの目的地にしかならない。なら個性はいらない。個性の扱いは自分のルートを作るところから始める。(これがつまり人生になる)
何を持っているか?によってどこに進むかも決まるし、どこに進むかを決める時に持ち物が使われる。将来目録にある様々な個性が生かされる場所に向かう必要がある。

で、その時に基準になるものが「価値基準」「心の声」だったりするし、人によっては審美眼が最も重要な人もいれば、スタイルとしての生き様を基準にする人もいる。
どれも無機質に言うなら「知覚の指向性」という個性が働いているが、有機的にもう一歩踏み込んで言うならそれらの全ては【自らの正義】によって決まる。

ただ個性を使うだけならランダムにいくらでも使えばいい。
しかしそれは自分自身に対して何も生み出さない。

ただ個性の集合を作るなら、まとまりのいい個性たちを上手に使えばいい。
しかしそれは一過性の満足を得ているだけで、個性のための人生は生まれない。

自分個人の個性を十分扱いながら、それが生かし続けられる良いルートに乗るには「個性的な人生」を作る必要がある。そのルートや世界は正義に基づく必要がある。


■正義とは何か?


正義は相対的で、立場が変われば180度変わる。などという言い方もされている。このため社会正義とかマスの正義は定義が難しい。
しかし個性の正義は簡単だ。なぜなら「すでに決まっているものであり、胸の内に収蔵されている」からだ。

もちろんその個性的な正義は、社会性に合わないこともある。時に反発することもある。人の集まり方すると異様だったり異質だったりすることもあるし、場合によっては排除されることもある。
しかし、誰にとっても個性を扱うとなる時は、その個性が何か正しい軸に従って動く必要がある。でなければただのランダムだったり、人の言いなりで使われるだけだったりすることになる。

極論するが、正義も個性だ。人の正義など自分には何の役にも立たない。
自分の正義をどれだけ通すことができる人生を送るか?が個性としては最大のものだ。最大が何にも増して重要なわけではないが、最大を目指さない個性は自分を生かすという意味では、その他大勢の個性に注目しない人と同じような一般平易的な人生を送るしかない。なら最初から個性など注目せず、みんなに合わせる機械的な振る舞いをした方がいい。
人に認められたり褒められるために個性を使うという考え方は、このことから十分に間違っていることがわかる。

正義は最大の基準になり、一生を通じて普遍で不変、他の個性の性質よりも遥かに絶対性が強い。それは何か?
年齢とともに変化しない物事をまず探る。内的な基準に関係することで、外の世界での活動を有利にするものではない。この意味で良いことや上手くいくことを手掛かりにすると正義は曇る。

元々持っている価値であり、どうやっても、いつの時代も、頭を掠めては思い出させる絶対値とはなにか?として探る。倫理観や社会性とは切り離す。
人を愛しまずにはいられない、そういう自分がいなかった試しがないのだとしたらそれが正義になる。しかし逆に、人を殺さずにはいられない。そう言う自分がいなかった試しがないのならそれが自分にとっての正義になる。
行為行動の話、倫理の話ではない。とにかく純粋に、どこまでも純粋に自分の中の絶対性ある強力な価値を探る。

そうして探し出された正義は、変えようとしても変えられない。自分のものとして備わっている
だがもし「人を殺さずにはいられない」という種類のものが見つかったら、その表し方は現代の、今の、自分にとってどうするべきか?と考えなければならない。ここで初めて扱い方が問われる。もちろん殺人者になればいいわけではない。なぜなら、1人殺せばその後の自分(の無数の個性)はあらゆる意味で台無しになるだろうし、3人殺せば死刑になる(それ以上生かす余地がなくなる)。結論個性を殺す人生を作ってしまうことになる。
このことからも個性的な人生の方が、自分の単発の個性を使うことよりも重要度が高いことがわかる。自らの正義のための全体構成を作る必要がある。

人を殺さざるを得ない視点を、現実に適応したら、その視点が持つ反映の仕方、ものの考え方、価値の生み出し方や通し方、など考えることは無数にあり、行動しても成果が出にくいので何度もやってみて筋を見つけていく必要が出る。
その生き方は正義に適った生き方だろうし、短絡的に個性を使っているからハッピーというような頭の悪いやり方でもない。

この例はあくまで例で、一見持ってはいけないような正義に行き当たったとしても、自分のため人生のために、あるいはなぜ自分として生まれてきたかの意味を気にする人はその意味のために、自分とは何者か?と問わざるを得ない人は自分が何者かの答えを導くために、必要な考え方と指針だと思ってほしい。

俺の主観で言うなら、それがどのような正義であれ、個性の正義に基づいた人は誰でも美しい
誰かの正義を旗印にしている者は総じて醜い。正義風を装う者も醜悪だ。正義などない、ただ漫然としている者は家畜でしかなく、誰かの正義に対してこれまでの自分や社会的な理由によって反発するのは最愚者だといえる。そういう人は常に自分の心に嘘をついて自分を蔑ろにしている。正義のルートに乗っている人もたまに正義に反した個性ありきではない行動をすることがある。鬱陶しく感じるしもどかしく思う。
正義とは生命力であり、自分が自分である意味と価値だ。本来意味や価値などない生命というものに、独自の美しさによって意味と価値を創造する行為だといえる。


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