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イラン, 革命から4年後のテヘラン 〜 1983年11月15-17日, Teach Your Children ♫

1983年4月26日に横浜港からのフェリーで日本を発って, 半年かけてソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトを旅し, 同年10月26日にあの旅で初めて飛行機を使ってカイロからイスタンブールに飛び, 2度目のトルコでは 2度目のイスタンブール, 初めてのアンカラと旅を続け, その後, イランとの国境の町ドグバヤジッドに滞在, そこから陸路, 11月15日に1979年の革命(結果としてイスラム革命)から4年後のイラン・イスラム共和国に入った。

イラン革命, 「たら, れば」 〜 米英によるイラン介入と不当極まりない政権転覆(1950年代前半)が無かったなら, 回り回っての, 巡り巡っての, 1979年のイランのイスラム革命は無かったのではないか, その前にイランは「中東」(西アジア)随一の民主的な国になっていたのではないか。

のっけからこのテーマで且つ超絶長い見出し, あ, その前に書いておくと, 「中東でただ一つの民主国家」というのはよくイスラエルやイスラエルの体制の支持者たちがイスラエルについての宣伝(プロパガンダ!)用に使うフレーズなんだけど, あれは言うまでもなくウソ。ただ, それは今日の主題ではない。その件はこれまでにも(多分これからも)note 上でしばしば書いていることなので, ここでは割愛。

ではでは, 本章の見出しに沿った話を .. と言っても, 実はこの超絶長い見出し, 以下の note の第6章の見出しそのまま。というわけで, テキストもその時に書いたやつを note リンクの下に転載してしまう, その note の前文と共に。 

note イラン革命(1979年) 〜 1983年8月, トルコ・イスタンブールで同宿したイラン人兄弟から聞いた話を, 当時の旅日記で振り返る

タイトル上の写真は, 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都, イラン革命(1978年1月7日 - 1979年2月11日, 結果としてイスラム革命)から 4年9ヶ月5日後のテヘラン市街(筆者撮影)。イランでは近年でこそスカーフ形状のヒジャブにすら, その公の場における強制に抵抗を示す女性が表立って出て来たが(ヒジャブを被らないで通り, つまりは公衆の面前に出て, そして多くがそれだけの理由でシャリーア=イスラム法違反だとされて牢獄に入れられてきた), 筆者がイランを旅した1983年当時はまだイスラム革命から4年余しか経っておらず, 他人には目しか見せないニカブもしくはブルカの如くに映る, 全身を覆うチャードル(チャドル)姿の女性が目立ったテヘランだった。

第6章 イラン革命, 「たら, れば」 〜 米英によるイラン介入と不当極まりない政権転覆(1950年代前半)が無かったなら, 回り回っての, 巡り巡っての, 1979年のイランのイスラム革命は無かったのではないか, その前にイランは「中東」(西アジア)随一の民主的な国になっていたのではないか。

歴史に「もしも」はない。歴史に「たら, れば」はない。歴史に if はない。こういう言い方はよく耳にして来た。E.H.カーの「歴史とは何か」は学生時代に読んで, 今も大事に持っている本のうちの一つだけど, 彼は「未練」学派, "might-have-been school", 言わば「こうだったかもしれない」「こうだったら良かったのに」学派を批判している。しかし一方で彼は, 歴史とは “a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past”, 「歴史家と彼が掴んだ事実との間の絶え間なく続く相互作用の過程であり, 現在と過去との間の果てしなく続く対話」である, と言っている(個々の歴史家はそれぞれ自分が欲する事実を掴んだりもするんだろうけれど!)。
まぁそもそも, 本 note 筆者は「歴史家」では全くないけれど!
でもね, とにかく, アメリカ合州国 という他国の政権転覆の常習犯が(アメリカ合州国による国家犯罪・不当な外国政府転覆は数知れぬほどあれど, うち例えば 1953年のイランのモサッデク, 1954年のグアテマラのグスマン, 1973年のチリのアジェンデは歴とした民主選挙・自由選挙でそれぞれの国の国民によって選ばれた政府だった, そんな民主制度による政府だろうが独裁政権だろうがとにかく自国の利益の為なら他国民から犠牲者・死者が出ることも厭わず平気で外国における政権転覆の罪を犯して来たのが自称「民主国家」アメリカ合州国), もしも イランにおいて イギリスと共に 1953年のモハンマド・モサッデク(民主選挙で選ばれ, 世俗政治を行なった民族主義者 *2)の政権を転覆させる(アメリカ CIA とイギリス MI6 が画策した皇帝派軍人によるクーデターで転覆)に至る不当極まりない内政干渉をしなかったなら, その後のアメリカ合州国の傀儡たるモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(日本では以前は「パーレビ」と表記されていた *3)が政治権力を一手に握る時代は来なかっただろうし(「パーレビ」の時代, アメリカの CIA とイスラエルのモサドの支援によって国民の政治活動を弾圧する秘密警察サヴァクを設立し, ファッションやカルチャー面でアメリカ風の「自由」があっても政治的な自由は極めて制限されていた, 因みに「パーレビ」政権はイスラエルとは軍事面でも協力関係にあった), それが無ければ, それに対する反動として起きたイスラム主義者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(*4)が宗教上のみならず政治上の権力者の座にも居座る結果になるような(最終的に「イスラム革命」となってしまうような)「イラン革命」も無かったのではないか。
話はやや逸れるが, ホメイニーが強大な権力を握るような時代が到来しなかったなら, あのホメイニーの莫迦莫迦しいファトワー(端的にいえばイスラム法による命令)によるサルマン・ラシュディ(パキスタン系イギリス人, 元イスラム教徒の無神論者, 小説「悪魔の詩」の作者)や「悪魔の詩」出版に関わった者に対する死刑宣告が実際上の力を得る事などなかったかもしれず, であれば, あの小説の日本語版の翻訳者で当時は筑波大学助教授であった五十嵐一氏が何者かによって惨殺されることもなかったのではないかと思われる。
だんだん「未練」学派っぽくなって来た。確かに歴史に「もしも」はない。過去はやり直しが効かない。既に書いたように, イギリスの歴史家 E.H.カーは "might-have-been school", 言わば「こうだったかもしれない」「こうだったら良かったのに」学派を批判している。しかし一方で, 彼は, 歴史とは “a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past”, 「歴史家と彼が掴んだ事実との間の絶え間なく続く相互作用の過程であり, 現在と過去との間の果てしなく続く対話」である, と言っている(個々の歴史家はそれぞれ自分が欲する事実を掴んだりもするんだろうけれど!)。本 note 筆者は「歴史家」では全くないけれどね! 
1953年に, 当時のイランの民主的に選ばれた世俗政治を行なう民族主義者モハンマド・モサッデク (Mohammad Mosaddegh) 首相の政府, 兎にも角にも歴とした外国政府を アメリカ合州国の CIA とイギリスの MI6 が画策して政権転覆し, パーレビ(モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー Mohammad Rezā Shāh Pahlavi)みたいな奴をイランの政治上の親玉に据え置かなかったら, その後の 1979年2月11日「成就」の「イラン・イスラム革命」なるものは起こり得ず, そもそもその前に, イランは, 今の自称「中東(西アジア)唯一の民主主義国」イスラエルなんかより遥かに素晴らしい, 「中東」(西アジア)随一の, 世俗主義で真に民主主義の国になっていた可能性がある。筆者個人の考えではあるが(当たり前だよ!), 実際, そうなる可能性は高かったのではないかと思っている。
*1 どうですか, 他国の政権転覆が大好きなアメリカ合州国で, そうした歴史をちゃんと省みることができる数少ない政治家, statesman, バーニー・サンダース翁!
因みに, 故「モサッデク」翁は以下の人, 故「パーレビ」爺 と 故「ホメイニ」爺 はその下のおっさんたち(というかジジイたち), 更にその下は, 「パーレビ」の妻になった「絶世の美女」たち。
*2 Mohammad Mosaddegh (Persian: محمد مصدق‎, June 16, 1882 – March 5, 1967)

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*3, 4 Mohammad Reza Pahlavi (Persian: محمدرضا پهلوی‎, October 26, 1919 – July 27, 1980) と,  Ayatollah Khomeini (Ruhollah Khomeini; Persian: سید روح‌الله موسوی خمینی‎, May 17, 1900 – June 3, 1989), つまり「パーレビ」と「ホメイニ」の爺さんコンビ。19歳離れてるし, 共にだいぶ昔に他界してるけど。

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ところで(全くもって余談, 余談以外の何者でもない .. かな, 笑), 上の写真でイランのラスト・エンペラー, パフラヴィー(パーレビ)の右に写っているのはパフラヴィーの 3回目の結婚相手, イランの上流階級のお嬢さんで軍人の娘だった Farah Pahlavi (Persian: فرح پهلوی‎, née Farah Diba (فرح دیبا‎); born October 14, 1938), この人もかなりの美女なんだけど, パフラヴィーの最初の妻と2番目の妻(別にパフラヴィーはイスラム圏で許容される同時に4人までの妻を娶っていたわけではなく, それぞれ事情があって離婚してから結婚, 関心ある向きはウィキなど調べたし)の美女度が凄まじい。
*5 パフラヴィーの 最初の妻 はエジプト人で, エジプトの王の娘だった Fawzia Fuad of Egypt (Fawzia bint Fuad; Arabic: الأميرة فوزية فؤاد‎; Persian: شاهدخت فوزیه فؤاد‎; November 5, 1921 – July 2, 2013), 写真はたぶんイランの女王だった時に撮られたもの。

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*6 パフラヴィーの 2番目の妻 は, イランの貴族とロシア生まれのドイツ人の妻との間に生まれた娘 Soraya Esfandiary-Bakhtiary (Persian: ثریا اسفندیاری بختیاری‎, June 22, 1932 – October 26, 2001), こちらはこんな顔立ちの人。

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なんかなぁ。エライさんは「顔と家柄」の合わせ技 で, 嫁さん選ぶのかねぇ。それだけじゃなかったかもしれないが(ネットでちら見した以上の細かい「惚れた腫れた」の事情なんか知らん), ま, 兎に角, エライさんはいい気なもんだね, お, そ, ら, く。
さてさて, それはともかく ♫

因みに上掲の note では次の章が "Persian Love" 〜 Layla and Majnun 〜 "Layla" & "I Am Yours", "Thorn Tree in the Garden" ♫

そしてその次の章(最後の章)が, あの イラン人兄弟 は今, どうしているだろうか? 〜 Road to Nowhere ♫

さてさて, 今年は西暦2021年, 今から38年前, そして1979年のイラン革命(結果としてイスラム革命になって「しまった」「革命」)から4年後, 1983年11月のイラン・イスラム共和国の旅へ, いざ!

テヘラン, イラン・イスラム共和国 〜 1983年11月16日(写真 6枚)

テヘランで撮った写真は 8枚だけど, まずはこの 6枚。この 6枚よりも何京倍(京は兆の1万倍)も気に入ってる 残り 2枚の写真は次章にて。

写真 1/6 ビルの下半分弱程度の窓という窓に, いっぱい何かが貼られてるのが分かると思う。なんと, いや驚くことでもないとも言える, それは ホメイニ の写真。その辺のことは 次々章に掲載する当時の旅日記にも記述あり。

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写真 2/6 通りからみたら高いところにある窓にも, ホメイニ の写真が ぎっしり。下からだとよく見えるわけでもないのにね。

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写真 3/6 近年はイラン・イスラム共和国のシャリーア(イスラム法)に基づく女性に対するヒジャブ強制に抗議するイラン人女性が増えてきたけれど(抗議が始まった最初の頃は勇気ある彼女らがのきなみ逮捕され投獄されてた), 当時のテヘランの街を歩く女性は, ヒジャブどころか 全身 黒ずくめのチャドルを身につけている人が多かった(全員が自らの自由意志ですすんで身につけていたかと言えばそれは違うでしょう, 勿論!)

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写真 4/6

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写真 5/6 路上での商売。これはタバコだったかな。

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写真 6/6 バザールの中。

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さて,

テヘランの路地裏で出会った, イランの子供たち 〜 1983年11月16日(あのときの20ヶ国以上の旅で撮った写真の中で最も好きな写真のうちの 2枚)

1983年11月16日, イラン・イスラム共和国の首都テヘランの路地裏にて, ばったり出会った, 可愛い可愛い子供たち。2021年の今現在, 彼ら彼女らは 40歳から40代に入ってほんの 2, 3年, といったところか。テヘランでもイランの他の街でも, あるいはイラン以外の何処でも構わないから, とにかくこの地球上の何処かで, みんなきっと健康で, 元気で, 明るく, 幸せに暮らしていてほしい。そう心から願う。

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もう一枚。ほんと, いい表情だし, いい笑顔だなぁと思う!

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この写真は, 翌1984年2月の帰国後, 田舎の実家の両親がすごく気に入って, これを拡大して額縁に入れ, 「1983年11月16日 イラン, テヘランにて, 剛 写す」とキャプションを脇に添えて家の居間の壁に飾った。今でももちろん, 飾ってある(そして親のことをここに添えておくと, 今年2021年の誕生日が過ぎて93歳になった父親も, 90歳になった母親も, ありがたいことに共に健在)。

イラン・イスラム共和国の旅, 最初の3日間 〜 1983年11月15-17日(旅日記 4ページ)

旅日記の最初の 2ページは, 以下の前回の旅 note

に載せた旅日記 8ページ分のうちの最後の 2ページ, 上掲 note の中の旅日記 7/8, 旅日記 8/8 と同じ。添えたテキストについても, そこからそのまま, 以下の2段落目以降に転載することにする。

旅日記 1/4 

以下, いきなり「ここでまた」と書いてあるのは, 上掲 note での流れ。トルコ共和国の最東端, イラン・イスラム共和国との国境に近いドグバヤジッドの町では, 外を歩いている女性というのはせいぜい小さな女の子ぐらいで, 10代後半以降の女性を町で見ることは殆ど無かった。めし屋も服屋も雑貨屋も何処も彼処も男だらけ。女性はただ家にいる, そういうことになる。というようなことをそこまでの日記に書いていて, 所々で宗教について言及していた, その流れがあるから(だからそこは上掲 note の方をちょっと覗いてもらわないとその点, 十分に伝わらないきらいはあるのです)。 

ここでまた, 「一人宗教談義」が(「談義」という言葉は 仏教用語でもあるようだけど, 笑)。ちょっと文明論混じりの「一人談義」, まぁ殴り書きメモだけど!

※ 西洋の「近代化」の原動力は キリスト教でなかった。(ここでは「近代化」というより「中世からの脱出」か) ルネサンス, 近代ヒューマニズム 等だろう。しかし, そこには 宗教改革 もあった。

もちろん

(女を外に出したのは キリスト教だ なんてことは全然ない。)

けれど。

ハッキリ言って, イスラム圏も 宗教の重みから脱する方がいいんじゃないか。イスラムが キリスト教と違う性格のものであるにしても。(「イスラームの心」は読んだけれども) 現実は厳しい。

「イスラムが キリスト教と違う性格のものである」ところからくる難しさはあるのだけれど。というのは, イスラームは 世俗世界, 平たく言えば日常生活の隅々まで宗教で縛るところがあるから(単なる一例を言えば, 日常生活の中にある細かい決まり事の多さ!), 世俗そのものが宗教化していて(何だか矛盾した語感があって, 世俗がもはや世俗でないとも言え), 結果として イスラームを信仰する人々のそれぞれ, あるいは国よりもっと小さなコミュニティの単位が 擬似「神政国家」化していて, そこから脱するのは容易でないような気がする。とにかく, 「現実は厳しい」。

*上掲の日記に書いてある「イスラームの心」とは, 黒田壽郎(1933年8月27日生まれ - 2018年5月6日他界, 日本のイスラーム学者で自身もムスリム, 国際大学中東研究所初代所長)の著書「イスラームの心」(中公新書, 1980年)。

宗教, そしてイスラームについて更に, 

女が 外に出ないこと, それを即 宗教に結びつけるわけにはいかないかもしれない。宗教とは別レベルの伝統とか社会慣習とかいったものもある。しかし, 何らかの関係はあるはずだし, とりわけイスラムの場合 それは密接であるように思われる。

若い頃の旅日記の殴り書きメモではあるものの, この考えの大筋は今も変わらない

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1983年11月15日,

いよいよ, 国境を越えて, イラン・イスラム共和国へ。「DM」とあるのは, 当時の西ドイツの通貨ドイツ・マルクのこと。

旅日記 2/4 ちょっと次の頁にまたがってるけれど!

前頁(旅日記 1/4)の終盤から既に, イラン・イスラム共和国 に入っている。

そのあたりでも, やみ両替の声が かかった。イラン人。チェックの役人のすぐ横で。

この辺り, 思い切り「本音と建前」「非公式と公式」が同居した領域。

マクの町で テヘラン行きのバスに乗った。

マクの町は 小さい。女はみんな 黒い布 かぶってる。ホメイニ の写真。明るいかんじ なし。

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夜の砂漠, 街を走るバス。

でも「異邦人」の久保田早紀さんも, ここを通る時は ヒジャブの類を被っていないと, 通らしてくれません(笑)。

上掲の旅日記にある, 思い出し記。

イラン側ボーダー。(建物内には 女は布をかぶってかなくちゃならん。) 外側は, ホメイニの絵の上に「イスラム」の文字。両サイドに「ノー ウェスタン」と「ノー イースタン」の文字。ボーダー建物内も 反米ポスター(自由の女神が人間を, 頭のトゲで刺して 上に「デモクラシー」の文字)などあり。

女性が「布をかぶって」かないと通れない, なんて話はそれはそれとして, 当時のイラン, 思いっきり反米, なのであった(2021年の今のイラン・イスラム共和国の体制よりもっともっと「反米」だった, まぁイスラーム革命からまだ4年, ホメイニ爺さんも健在だったしなぁ!)。

旅日記, 最後の3行。

※ マクからのバス出発のとき, 乗客がいっせいに アラーがどうした こうした と叫んだ, ナンダアリャ?

"アッラーフ アクバル"(「神は偉大なり」)とかだったのかな。それだけじゃなかっただろうけど。

兎にも角にも兎に角が生えて(後半は例によって意味不明, 笑), おお, いよいよ, イラン・イスラム革命からたった4年後の イラン・イスラム共和国に入っていたのだ, ではでは, この続きは 次回の旅 note にて! .. と書いたのは上掲の前回の旅 note, ここでは, 続きは以下!

旅日記 3/4

1983年11月16日

朝焼けを見ながら テヘラン へ。

ここからしばらく, イラン, パキスタン, そしてインドの旅の初め頃まで, トルコ・イラン間の国境近くで知り合ったドイツ人と「放浪」の旅を共にした。常に行動を共にしたのではないが, しばしば一緒に街の見物をしたり, 街から街の移動を共にしたりと。

歴史専攻(フランス革命後のドイツ史)の学生。19才。('64生) しかし哲学や文学, ジャーナリズムにも興味があって, 専攻を変えるかもしれん。大学も変えるとのこと。両方とも, easy らしい, 西独では。仏教にも興味があって, わりと知ってるみたい。本国ではしばしば ハッシッシをやってます。

まぁ「ハッシッシ」は 俺もしばしば, ってか頻繁に, インドでやったけれど(合法のところで。当然ながら日本では一切やらない!)。

「専攻を変えるかもしれん。大学も変えるとのこと。両方とも, easy らしい, 西独では」, これは羨ましい話。日本ももっと簡単にこれが出来ればいいのにね。何が羨ましいって, 1979年春に大学に入学した後の話, この note 第1章 札幌にいた理由 〜 タイムマシンにおねがい ♫ に書いてある通りで,

な〜んていうような, 他人の個人史に関心を持つ人はあんまりいないだろうけれど(笑)。

さて, 話を戻して,

彼が昼寝の間, オレは walk around town, 近くに大きなビルディング あって, 窓という窓に ホメイニ の写真。異常だね。
また, 異様な飾りものとともに額ぶちに入った人物写真。(写真とった。参照せよ)

これは本 note 前々章の写真 1/6, 2/6 ご参照を(窓の写真のクローズアップまではしてないけれど, おおよその様子は分かる)。

それが いくつかあった。そして いたるところに, ごく普通の人物写真と文章のビラが貼ってある。「聖戦」の戦死者か。ちょっと 戦前の日本 っぽいかな, そこらへん。

ちょっと 戦前の日本 っぽいかな, そこらへん。」(まさしく「ちょっと」「っぽい」程度のことだけどね)

「戦前の日本」関連 note のひとつ。

さて, 

1983年11月16日 の イラン・イスラム共和国の話に戻して, 

女はみんな 黒いチャドル。(黒でないのもあるが, ほとんど黒) 

これは, 本 note の前々章に載せた写真 3/6 で, ある程度その頃の様子が分かる(この辺りのことは, 上掲の旅日記 2/4 に出てくる「マクの町」で見たかんじと殆ど同じ)。

当然 明るいかんじ なし。

それと, 

街が暗くなるのは 異様に早い。

街の灯りが少なかったせいでそう思えたりもしたのかな。2021年現在のテヘランはともかくとして, 1983年当時のテヘランの街の印象はそんな感じだった。 

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チャイハナで会ったイラン人, 英語話し(ドイツ等行ったことある), 親切だった。

しかし, それにしても,

街のいたるところに ホメイニ の写真。

そして, これはマジで驚き。

街で くだものを 故意にぶつけられた。ハッキリ言って 頭きました。

これは当たり前だね(笑)。頭こなかったら可笑しいよ。

旅日記 4/4

テヘランの街の様子について, 追記。

そして 1983年11月17日, 午前11時発のバスで 早くも テヘランを発ち, 次の目的地「エスファハン」(イスファハン)へ。イスファハンの印象は, テヘランより余程よかった。

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さてさて, 超絶美しいモスクがあった「エスファハン」(イスファハン)の旅については, 次回 note にて。で, 今日のこの note は, あと 3章。

イランの旅 関連 note, 以前の4点

4点目は今日のこの note の第1章でもリンクを付したもの。

note イラン ・イスラム革命から 4年、1983年11月のイラン 〜 その1 : 締めは Holger Czukay "Persian Love"

note イラン ・イスラム革命から 4年、1983年11月のイラン 〜 その2 : 締めは Holger Czukay "Persian Love"

note 37年前( → 2021年現在では「38年前」)の今頃イランにいたから Persian Love (Holger Czukay) 〜と言えば スネークマンショー

note イラン革命(1979年) 〜 1983年8月, トルコ・イスタンブールで同宿したイラン人兄弟から聞いた話を, 当時の旅日記で振り返る

イランに入る前の, 2度目のトルコ滞在記 〜 1983年4月26日の日本出発以降そこまでの各国各都市の旅 note 全リンク付き

2度目のトルコの旅では, 1) 2度目のイスタンブールに滞在, 2) 初めての首都アンカラに滞在, 3) イランとの国境の町ドグバヤジッドに滞在。

1983年4月26日に横浜港を発って, まずは半年間かけたソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトの旅については, 以下 note 1) の第1章 1983年4月26日に日本を発ってから 6ヶ月 〜 ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプト, ここまでの振り返り に, その各国各都市・旅 note リンクへの案内。

1) イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日)

2) 2度目のトルコ, 初めての首都アンカラ 〜 1983年11月9-11日

3) 旧約聖書の御伽噺「ノアの方舟」が着いたとされるアララト山を拝んだ, ドグバヤジッド(トルコ), イランとの国境の街(町とか街とか厳密に使い分けてなかったかも!)にて 〜 1983年11月12-15日

さて, 今日も今日とて, note の締めは音楽 ♫

Teach Your Children (CSNY): 歌詞和訳 〜 世界の子供たちの写真と映画と

この歌をあらためて取り上げようと思ったのは, うち 1枚を今日の note のタイトル写真に使い, それを含む計2枚を 本 note 第3章に掲載した, 1983-84年のバックパッカー海外「放浪」もどきの旅のなかで撮った写真の中でも最も気に入っている, 38年前の11月にテヘランの路地裏で撮ったイランの子供たちの写真を見て思い浮かんだから。

以下の note では, 2017年9月に現在の我が街(日本!)で撮った子供たちが映っている動画の他, 1983年の海外「放浪」中にロシア(当時はソ連)・フランス・ギリシャ・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナとイスラエル(厳密に言うと写真に写っているのはパレスチナ人の子供たち, 撮影場所はイスラエルのテルアヴィヴ)・イランなど, 世界各地で撮った子供たちの写真などを掲載しつつ, Crosby, Stills, Nash & Young の名曲のひとつ, "Teach Your Children" の歌詞を和訳した(因みに note タイトルにある「映画」とは, この歌が使われている, 邦題「小さな恋のメロディ」, あの映画のことで, それについても紹介)。

以下の note リンクの下には, その note 前文と, "Teach Your Children" の歌, 歌詞, 筆者による歌詞和訳を掲載。

最初にいきなりタネ明かしみたいなことを書いてしまうと(「種明かし」とタネを漢字で書いた方が更に言い得て妙かもしれない)、実はこの歌は、その歌詞の内容で言えば "Teach Your Children and Teach Your Parents" と呼んだ方が相応わしいような歌である。その 2つのフレーズが出てくるからというだけのことではなく、この歌の歌詞が訴えていることを踏まえれば。つまり、この歌は「親たちの世代から子供たちの世代へ」というベクトルだけでなく「子供たちの世代から親たちの世代」へというベクトルの双方向を歌っていて、そんな両者が伝え合う・教え合う・コミュニケーションして反響し合う、そんな世代間のインタラクティブなムーヴメントを歌った歌なんだと。このことの意味は、英語ネイティヴの人なら、一緒に歌って気持ちよくなるなるようなメロディのこの歌を歌っているだけで響いてくることかもしれないけれど、筆者としては今日 和訳してみてあらためてそのことを今まで以上に感じることができた。これは和訳作業をしてみての個人的収穫。
タイトル上の写真は、2017年9月21日の夕刻、我が街の小学校から夕陽に向かって、というか自宅に向かって、下校していく子供たち。筆者がウォーキング中に撮った動画からのキャプチャーで、この写真はたまたま女の子ばかりだけれど、少年少女が映った動画。今頃は中学生になっていたり、中にはこの春から高校生という子もいたかもしれない(件の動画は第5章にて)。

「第5章」とはもちろん, 上掲 note の第5章。

Teach Your Children 〜 from "Déjà Vu" by Crosby, Stills, Nash & Young, released on March 11, 1970

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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この世界でいま歩みを進めている君たちには
これで生きていくんだという道標が必要に違いない
だからこそ誰でもない 自分自身になることさ
なぜって 過去はいつも過ぎ去っていくものだからね

子供たちにはよく教えてあげることだ
父親たちの苦悩が ゆっくりと消えていったことを
子供たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
子供たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

感じやすい年頃の君たちは (聞くことができるかい, 気に掛けてるかい)
でもまだ恐れというものを知らない (分かるかい)
年嵩のいった人たちは その恐れによって大人になったんだ (僕らは自由でなくちゃいけない)
だから 君らは助けてあげてほしい (君の子供たちに教えるんだ)
その若い力で彼らをね (君が信じることを)
彼らは真理を探し求めてるんだ (世界を作るんだ)
死ぬその時まで (僕らが生きることができる世界を)

親たちにはよく教えてあげることだ
子供たちの苦悩が ゆっくりと消えていくことを
親たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
親たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

..............................................

*注釈を付け出したらやや大袈裟に言えばキリがないけれど、ひとつ、歌詞の中に出てくる "hell" というのは、ここではもちろん幾つかの宗教で使われる宗教用語としての「地獄」ということではなく、言わば「(地獄のような)塗炭の苦しみ」「生き地獄」「修羅場」「苦悩」といった意味になる。
歌詞を訳していて思った、「人生のポケット」というものも、そんな "hell" というもののひとつなんだろうなと。

Teach Your Children 〜  from Crosby, Stills, Nash & Young LIVE album "4 Way Street" released on April 7, 1971

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

..............................

この世界でいま歩みを進めている君たちには
これで生きていくんだという道標が必要に違いない
だからこそ誰でもない 自分自身になることさ
なぜって 過去はいつも過ぎ去っていくものだからね

子供たちにはよく教えてあげることだ
父親たちの苦悩が ゆっくりと消えていったことを
子供たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
子供たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

感じやすい年頃の君たちは (聞くことができるかい, 気に掛けてるかい)
でもまだ恐れというものを知らない (分かるかい)
年嵩のいった人たちは その恐れによって大人になったんだ (僕らは自由でなくちゃいけない)
だから 君らは助けてあげてほしい (君の子供たちに教えるんだ)
その若い力で彼らをね (君が信じることを)
彼らは真理を探し求めてるんだ (世界を作るんだ)
死ぬその時まで (僕らが生きることができる世界を)

親たちにはよく教えてあげることだ
子供たちの苦悩が ゆっくりと消えていくことを
親たちには 君らが見た様々な夢を伝えるんだ
親たちが何かを掴んだことを 君はきっと知ることになるよ

でも何故だなんて訊かないことさ、もし彼らが答えれば 君はただ泣くだけなんだ
だから彼らをただ眺めていればいい、それで ああ彼らは自分を愛してるんだって分かるから

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