ドイツ最古の大学がある街 ハイデルベルク 〜 西ドイツ時代, 1983年6月16日(写真8枚)
1983年4月26日の横浜港でスタートしたユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅, その50日目, 1983年6月14日にマッターホルンの華麗, 荘厳, 雄大な景色を堪能して1拍したスイス・ツェルマットを翌6月15日に発ち, 最初はオーストリア・ウィーンに行くつもりが, スイス・バーゼルに出たところでどういうわけか気が変わり, ドイツ(当時は「ベルリンの壁」時代なので西ドイツ!)のハイデルベルクへ向かったのだった。
スイス・ツェルマットまでを振り返ると..
ドイツ(西ドイツ!)・ハイデルベルクの前の滞在地スイス・ツェルマットの旅人噺は以下リンク先 "ツェルマット note", そして日本・横浜港からスイス・ツェルマットの前までの旅人噺はこの note の第1章に書いた通り。なんだか自分向けの「備忘録」っぽいが(笑)。
スイス・ツェルマットを出てから, 途中で次の目的地を変え, 西ドイツ・ハイデルベルクへ 〜 1983年6月15日
当時の旅日記によると, いつ決めたのか, ツェルマット(スイス)を出た後は, ウィーン(オーストリア), ベオグラード(当時のチトーのユーゴスラヴィア「社会主義連邦共和国」の首都, 現在のセルビア共和国の首都)へと進む(双六みたいだな, 笑)つもりでいたようで, しかしそれがバーゼル(スイス)(*1, この バーゼル, 当時の旅で滞在した街ではなく通過しただけなのだが, 世界史・近現代史とそれだけでなく自分史的にも重要な場所ではあるので, 本章の最後に注釈 を付ける)まで行ったところで気が変わり, バーゼル駅を「17:29発」の列車でドイツ(当時は「ベルリンの壁」時代なので西ドイツ!)のハイデルベルクに向かっている。
以下, 当日の筆者の旅日記 殴り書きからの写し。いや, その前に, つまり, そういうわけで, あの旅はけっこう「あしたはどっちだ」的な旅だったのだ。そして, 「あしたはどっちだ」と言えば「あしたのジョー」なのだ, そう言えば, いやそう言わずとも, あの歌の歌詞は 寺山修司 だったのだ。話が「飛びます, 飛びます」(は 寺山修司 ではなくて 坂上二郎, 笑)しているが, 「それでいいのだ」(は 寺山修司 ではなくて バカボンのパパ, 笑), 筆者の 1983年6月15日付 旅日記 殴り書きからの写しは, この 殴りスポーツ「昭和」哀愁ドラマの主題歌の後にするのだ。
作詞:寺山修司 作曲・編曲:八木正生
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。
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歌詞に頻繁に出てくる決め台詞は 〜 あしたはどっちだ 〜 「あしたはどっちだ」的な旅の話を続けます。
..................... ではでは ♫
以下, 1983年6月15日付 旅日記 殴り書きからの写し。マッターホルンの雄大な景色を堪能して 1拍したスイス・ツェルマットを発って, いざ次の目的地は?
「ウィーン, ユーゴ」って書いてるけど, この並びは妙だね, ウィーンは都市の名前なのに, その次の目的地は「ユーゴ」って国名を書いている。前者はウィーンが目的だったから, 後者はベオグラード云々よりとにかく「ユーゴ」, チトーが健在だったユーゴスラヴィア「社会主義連邦共和国」をこの眼で見てみたいという気持ちが強かったからかな, まぁいずれにしてもさすがは 殴り書き(笑)。
さてさて, 注釈を一つ付ける。
*1 バーゼル。スイスは各地方で地理的あるいは歴史的な理由から住民に話される主な言語が異なっており, 公用語はドイツ語, フランス語, イタリア語, ロマンシュ語(ロマンシュ語の事情はちょっと特殊, ググって調べよう!)の 4つ。バーゼルはドイツ語圏, ドイツ語での表記は Basel, 発音はどうなるんだったかな。当時の旅日記には「バーセル」と書いているようだけど, たぶんバーゼルに近く, 日本語でのカタカナ表記は実際, 「バーゼル」。で, この バーゼル, 実はというか何というか, 1897年にヨーロッパのユダヤ人シオニスト達による 第1回シオニスト会議 が開かれたところ。
ってなわけで, ツェルマットの前の滞在地, 同じくスイスの都市 ジュネーヴ に絡む旅人噺を書いた "ジュネーヴ note" へのリンクを以下に。というのは, この note では, ジュネーヴ第4条約 絡みで イスラエル, つまりシオニズム が生み出した国家 イスラエル(及びそのイスラエルに占領, 植民されたパレスチナ, *2)の問題を取り上げていたから(ついでにその絡みで「日本国」の魔が差したんだか間が抜けたんだかの2021年現在の防衛副大臣とその間抜け発言を支持した, 21世紀の日本の自称「イスラム思想研究者」の剣も, 件かね(笑), 取り上げ)。
*2 パレスチナ/イスラエル問題「等」magazine
学校で「習ったガラクタ」なんか(笑) 〜 ドイツ最古の大学がある学生の街 ハイデルベルク の古(いにしえ!)の「壁の落書きだって読めるんだぜ」 ♫ (写真2枚)
ハイデルベルクにあるドイツ最古の大学, ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク, 通称「ハイデルベルク大学」は 1386年創立。
ところで拙者の母校は 1979年4月に何となくのいま思えば行き当たりばったりの事情で入学することになった「北海道大学」という名の大学なのだが, で, あの大学でまぁよかったなと思ってはいるが(以下リンク先 note, ここからクリックなりタップなりして見る人は殆どいないと思われるものの, なんつーか「備忘録」, 笑),
いまウィキペディア見て驚いた, 北大の前身はこれはけっこう多くの人に知られていることで(クラークさんの方が有名か, 笑)「札幌農学校」なんだけど, その札幌農学校, 設立は1876年(明治9年), それはいいとして, なんと「日本初の学士授与機関」だったんだと。とはいえ, 1876年ですよ, 1876年。
ハイデルベルクの「ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク」, 通称「ハイデルベルク大学」は 1386年創立。500年近く違うやんか!
札幌農学校がその後, 東北「帝国主義」大学農科大学, じゃなかった, 東北「帝国」大学農科大学になったのは 1907年, 北海道「帝国主義」大学, じゃなかった, 北海道「帝国」大学になったのが 1918年, あのですね, ハイデルベルクの「ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク」, 通称「ハイデルベルク大学」は 1386年創立。
与太話, いや決して「でたらめな話」ではなくて歴史的事実を書いているんだけど, しかしばか話という意味では確かに与太話, それはさておき。
以下, 1983年6月16日付 殴り書き旅日記の冒頭と, 同日, ハイデルベルクの旧学生牢(*1)の「壁の落書き」を撮った写真(2枚)。
学生牢が、実際に使われていたのは、1712年から1914年までの約200年間で、どういった学生が入っていたかというと、一言でいうと、行儀の悪い学生であった。深夜、町の人の迷惑を顧みずドンちゃん騒ぎをしたり、酒場で仲間と小競り合いをしたりして椅子やテーブルを壊した学生。時には警察にたてついて、そのために牢屋に入れられる骨のある学生もいた。だから、ここに入ることは、カッコイイというか名誉なこととされ、卒業までに一度は、入りたいと当時の学生は考えたという。
どのくらいの期間、この牢屋に入っていたかというと最低3日間、長い人で4週間という記録もある。最初の3日間は、パンと水のみ、4日目からは差し入れも許された。
学生達は、ここに入った記念に自分の似顔絵を、当時の流行であった影絵として描き、自分の名前を落書きとして残した。影絵の多くに帽子も描かれているが、帽子はその学生が所属した学生クラブ(Bruchenschaft)のもので、この帽子が日本に入って、学生帽の原型になったといわれる。落書きする壁のスペースがなくなってくると、友達に肩車でもしてもらったのだろうか、天井にまで、ろうそくのすすを使って描いている。
学生牢の中には、歴代の収監者の落書きがたくさん残っている。この学生牢は現在、同大学の博物館の一部として公開されている。
ハイデルベルク大学の旧学生牢, 壁の落書きの写真 1)
1879年6月23日から27日まで この牢屋に収監されていた 4人の学生たちの落書きが見える。"When I think back on all the crap I learned in high school, it’s a wonder I can think at all, and though my lack of edu—cation hasn’t hurt me none, I can read the writing on the wall" ♫
ハイデルベルク大学の旧学生牢, 壁の落書きの写真 2)
写真の左端に日本人女性の名前が見える。1974. 3. 22 かな, そもそもこの 学生牢が実際に使われていたのは 1712年から1914年にかけて ということだし, これはまぁ日本人旅行者(もしくは当時の留学生?)による落書きってことかな。歴史的に重要な「落書き」のところにその歴史と関係ない「落書き」をしたのだとしたら, これはかなり「いただけない」行為だけどなぁ。他にも日本人らしき名前が見え, さらにその他にも年代からして怪しい落書きが。
真ん中にあるのは, 1906年2月20日 のハイデルベルク大学学生の落書きか。この学生, 後々ナチスに感化されず, 少なくともナチスの罪に関与しなかったのなら救われるなぁ, などとつい考えてしまうのだが。それって考え過ぎと言えば,
考え過ぎ https://youtu.be/CDi64fShuS0 ♫
*1 この旧学生牢の「壁の落書き」, 当時のハイデルベルク大学の学生たちの声が聞こえてきそうな旧学生牢の「壁の落書き」の写真を見ていると, なんとなく, あの映画(*2)のこのシーンを思い出す。映画は 1989年のアメリカ映画だけど。
*2 「いまを生きる」, Dead Poets Society
*3 以下はちょっとこの話題から離れる, しかし *1 のシーンをリンクさせながら, 今年 2021年3月11日, 311の10周年の日に書いた「宗教」批判 note
*4 「ブレードランナー」から「2001年宇宙の旅」/ "Echoes" へと巡る旅 〜 〜 経由地は「いまを生きる」「6才のボクが、大人になるまで。」「生きる」「ゴンドラの唄」, "To the Virgins, to Make Much of Time", 途中下車して「ウィンザーの陽気な女房たち」, "Welcome to the Pleasuredome" "Relax", 「アポロの歌」, "If" & "If", 「ツァラトゥストラはこう語った」
*5 さてさて, ついに「ブレードランナー」や「ツァラトゥストラはこう語った」まで(*6 に続く, 笑),
*6 話が飛んでしまったところで, ここで話題を「壁の落書き」に戻すと, 「壁の落書き」と言えば, ポール・サイモンのゴキゲンなポップ・チューン, 邦題「僕のコダクローム」, つまり "Kodachrome" ♫
When I think back on all the crap I learned in high school
It’s a wonder I can think at all
And though my lack of edu—cation hasn’t hurt me none
I can read the writing on the wall
高校で習ったガラクタの全てを思い起こしてたんだけど
驚きだね、僕はいま何だってじっくり考えられるんだから
まぁそもそも学校の勉強なんか出来なくたって困ったことないし
ほら、壁の落書きだって読めるんだぜ
「ほら, 壁の落書きだって読めるんだぜ」♫ 〜 Kodachrome (Paul Simon), 歌詞和訳つき
これについては前章の最後, 注釈 *6 を参照されたい(笑)。前章にハイデルベルク大学の旧学生牢で撮った「壁の落書き」の写真を載せたけれど, あの旅で拙者が使っていたフィルムはコダックだった, つまり「僕のコダクローム」。
カメラは残念ながらニコン(以下の歌では英語圏等による発音で「ナイコン」)じゃなくて, コニカだったけれど。
「僕のコダクローム」, ポール・サイモンがポップを極めた傑作アルバム(1973年5月リリース, *1), 題して「ほら, サイモンがまた韻踏んでるよ」, 原題 "There Goes Rhymin' Simon" のオープニング・トラック, 原題 "Kodachrome" ♫
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。
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高校で習ったガラクタの全てを思い起こしてたんだけど
驚きだね、僕はいま何だってじっくり考えられるんだから
まぁそもそも学校の勉強なんか出来なくたって困ったことないし
ほら、壁の落書きだって読めるんだぜ
コダクローム
イカした明るい色をくれるし
夏の緑だって分けてくれる
世界中が青空だって思わせてくれるほどさ、だろ?
それにナイコン(ニコン)のカメラだって手に入れたんだ
だったら写真撮るのは楽しくてたまらなくなるよね
だからママお願いだよ、僕のコダクロームを取り上げないで(*a)
独身時代に知り合った女の子みんなの写真を撮っていて(*b)
一晩のうちにまとめて持ってきたとするよ
でもそれって僕の甘美な想像にはかないっこないんだよ
白黒写真じゃ全てがつまらなく見えてしまうんだから
コダクローム
イカした明るい色をくれるし
夏の緑だって分けてくれる
世界中が青空だって思わせてくれるほどさ、だろ?
それにナイコン(ニコン)のカメラだって手に入れたんだ
だったら写真撮るのは楽しくてたまらなくなるよね
だからママお願いだよ、僕のコダクロームを取り上げないで
コダクロームを取り上げないで
コダクロームを取り上げないで
コダクロームを取り上げないで
コダクロームを取らないで
コダクロームを取らないで
コダクロームを取り上げないで
コダクロームを取らないで
僕を放っておいて
コダクロームを取り上げないで
コダクロームを取らないで
コダクロームを取り上げないで
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*a, b とも大した注釈でもないけれど, 今日の本 note のここはハイデルベルク大学・旧学生牢の「壁の落書き」の話から。この歌と歌詞の話は上掲リンク先 note にて。しかし, 以下の注釈でも結局どんどんハイデルベルクから離れていくのだった(ハイデルベルクには次章で復帰する!)。
*1 "Kodachrome" がオープニング・トラックを飾った, ポール・サイモン 1973年5月リリースのアルバム "There Goes Rhymin' Simon" ♫ その全曲ではないが 5曲聴けて, うち 4曲は 筆者による歌詞和訳つき。
*2 ついでにその前作, 1972年1月リリースの "Paul Simon", 全曲聴けて, さらに 3曲(プラス 同アルバム収録曲以外の数曲についても)筆者による歌詞和訳つきの note をえ〜い, この際! .. このサイって, どのサイだ?(*3)
*3 この際 .. って, どのサイだ? このサイダーだと思う ♫ あなたがジンとくる時は私もジンとくるんです, サイダー.. ♫
冒頭から好きだった 1973年ヴァージョンが流れるけれど, 一番好きだったのは 1:29~ のヴァージョン。ついでに言うと, 歌は違うけど, 3:14~の風吹ジュンもいいなぁ!それにしても大滝詠一師匠サイコー, 合掌。
さてさて。
ハイデルベルク 旧市街 〜 1983年6月16日(写真4枚)
前々章に載せた当日の旅日記の続き(次章に掲載)によると, ハイデルベルク城や「哲学者の道」(原語ドイツ語では Philosophenweg, 英語だと Philosophers' Way, 日本語はほぼ直訳だな)などに行ったようで。
道の名称は、多くの哲学者や詩人、大学教授や学生らが散策し、瞑想や思索にふけったことに由来するとされる。この道を散策した詩人には、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの他に、フリードリヒ・ヘルダーリンやヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフがいる。
ゲーテさんには中学生だった時の一時期, お世話になりました。「若きウェルテルの悩み」やゲーテ詩集を読んだ(でもナンつーか, ナンは美味しいインドのパン, もとい, そのころ読んだ本だとフランスのジッド, 当時はジイドと表記されていたけれど, アンドレ・ジッドの「狭き門」の方が印象に残ってる, 何しろ最後の一文いまでも言える, 「ランプを持って女中が入ってきた。」)。
あ, また話が飛ぶ, 「狭き門」で恋に落ちるジェロームとアリサ, そしてジェロームに惹かれていたアリサの妹はジュリエット, おおジュリエット, ジュリエットと言えば今度はイギリスのシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を思い出す。
あっとこれは歌。
あっとこれは映画。
これって昨日の note だった(笑)。
話がドイツからフランスに行って, その次はイギリスに行って, またフランスに戻ってきた。
しっかし, 今日はドイツ, ハイデルベルク note なのだった。何やってんだ(笑)。
ハイデルベルク城 〜 1983年6月16日
ハイデルベルクの旧市街は美しかった。確か生憎かなりの雨が降った後で, ネッカー川(ライン川の支流)の水は「流れも清き」という風情ではなかったけれど。
天候はまだ曇りがちだった。
生憎の天気でも, やっぱ美しいものは美しい。
さてさて。
「サンディニスタ民族解放戦線」が懐かしい! 〜 ハイデルベルクで出遭った, ニカラグアへのアメリカの介入を批判・非難する西ドイツの若者たちの運動(写真2枚)
「サンディニスタ民族解放戦線」, 懐かしいと言っても, 今もあるけど。しっかし, サンディニスタのリーダーって今もオルテガなのか。レーガン時代のアメリカ合州国による干渉と介入, アメリカによる旧ソモサ独裁政権側の民兵への支援(自称「民主主義国」アメリカによる他国への介入, 右派への軍事援助)や厳しい経済制裁などがとにかく酷かったものの(中南米の革命政権や左派政権, いやそれどころか革命政権だろうが左派政権だろうが, 独裁政権だろうが民主選挙で選ばれた政権だろうが, アメリカ合州国は中南米だけでなく中東でもアジアでもこれをやってきた, 世界の自称「リベラル」はいい加減このばからしさに気づくべきだ), カッコ長くなったな,
とは言え, 兎にも角にも, 革命政権も左派政権も結局, 権力が長く続くと腐敗が進み, ロクなことにならない。2021年の今, 振り返ると, 後期サンディニスタも全く, その例外ではなかった。
話を戻して, 以下,
1983年6月16日付の旅日記, 殴り書き, 前々々章に載せたその日の日記・冒頭部分の続き(本 note に関係ない箇所等カット), 4ページ 及びそれに続く 2ページ見開き分, そして その後は, その場で彼らの了解を得て撮った写真 2枚。
さてさて, 以下, 写真 2枚。
西ドイツの若者たちの, アメリカによるニカラグア介入批判の運動, 写真 1)
「NO, アメリカ(合州国)はニカラグアへの介入を止めろ。」("Intervention" には他国への『内政干渉』一般のほか具体的に「武力による介入」の意味もある)
西ドイツの若者たちの, アメリカによるニカラグア介入批判の運動, 写真 2)
CIA, USA, Nicaragua などの文字が見える。言いたいことは, これだけで分かる。なぜそんなに分かりやすいかと言うと, アメリカ合州国 がそういうバカバカしいほどに「分かりやすい」他国への介入政策や外国政権転覆の醜悪な歴史を持っているから。例を挙げたらキリがないが, 以下の 3つ, つまり1953年のイランのモハンマド・モサッデク(イギリスのMI6との共謀による画策で政権転覆), 1954年のグアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン, 1973年のチリのサルバドール・アジェンデ(同年9月11日にアメリカ合州国および同国CIAが画策したピノチェトのクーデターの最中, 国民に対するラジオ演説をした後に自死, 殆どのアメリカ人は自国の2001年の911しか知らないが, 1973年911にアメリカ合州国自体が外国であるチリに悲劇の911をもたらしている)は, 外国で民主選挙・自由選挙で選ばれた政権すら自国の身勝手な「国益」とやらの為に平然と政権転覆させる自称「民主主義国」アメリカ合州国のその裏, いやもう丸分かりなので「表」みたいなものだが, とにかくその醜い「顔」が見える「分かりやすい」実例。
CIA, USA, Nicaragua ..
さてさて, USA,
America, the United States of America, アメリカ合衆国, アメリカ合州国って ♫ というわけで, まだ「拙訳」なる自虐表現を note 上で使っていた時のポール・サイモン「アメリカの歌」"American Tune" 歌詞和訳 note と, そしてその1ヶ月後の「アメリカの歌」縦横無尽・自由奔放(「アメリカの歌」だけでなく S&G「アメリカ」歌詞和訳も含む)note, 計2点へのリンク。
さてさて(「さてさて」ばっかし)。
「サンディニスタ!」 〜 Sandinista! (The Clash, 1980) ♫
前章で「サンディニスタ」を取り上げた以上, 音楽好きならこれを載せねば 〜 "Sandinista!" by The Clash ♫
The Magnificent Seven 〜 The Clash, originally an opening track on their 1980 album Sandinista!
The Magnificent Seven 〜 an opening track from Sandinista!, the fourth studio album by The Clash, released on December 12, 1980
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。
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以下は Full album, いつまで youTube 上にあるか分からんけれど。
既に YouTube 上に無し(2022.8.31 加筆/編集)。
Sandinista! 〜 The Clash (1980)
Side one
[00:00:00] -- The Magnificent Seven
[00:05:33] -- Hitsville U.K.
[00:09:55] -- Junco Partner
[00:14:48] -- Ivan Meets G.I. Joe
[00:17:54] -- The Leader
[00:19:36] -- Something about England
Side two
[00:23:19] -- Rebel Waltz
[00:26:46] -- Look Here
[00:29:31] -- The Crooked Beat
[00:35:00] -- Somebody Got Murdered
[00:38:34] -- One More Time
[00:42:06] -- One More Dub
Side three
[00:45:45] -- Lightning Strikes (Not Once but Twice)
[00:50:36] -- Up in Heaven (Not Only Here)
[00:55:08] -- Corner Soul
[00:57:51] -- Let's Go Crazy
[01:02:15] -- If Music Could Talk
[01:06:52] -- The Sound of Sinners
Side four
[01:10:54] -- Police on My Back
[01:14:11] -- Midnight Log
[01:16:20] -- The Equaliser
[01:22:08] -- The Call Up
[01:27:35] -- Washington Bullets
[01:31:28] -- Broadway
Side five
[01:37:19] -- Lose This Skin
[01:42:28] -- Charlie Don't Surf
[01:47:22] -- Mensforth Hill
[01:51:06] -- Junkie Slip
[01:53:53] -- Kingston Advice
[01:56:31] -- The Street Parade
Side six
[01:59:59] -- Version City
[02:04:21] -- Living In Fame
[02:08:57] -- Silicon on Sapphire(/Version Pardner?)
[02:17:43] -- Career Opportunities
[02:20:14] -- Shepherds Delight
The Clash
Joe Strummer – lead and backing vocals, guitar, keyboards
Mick Jones – guitar, keyboards, lead and backing vocals
Paul Simonon – bass guitar, backing vocals, lead vocals on "The Crooked Beat"
Topper Headon – drums, lead vocals on "Ivan Meets G.I. Joe" and backing vocals in "The Sound of Sinners"