#44 嘘についての愛を語る

【前書き】
今回はいつもとは少し趣向を変えての投稿です。本作品については、とある文芸サークル宛に別名にて4月ごろに寄稿したものを加筆・修正した短編という形で載せています。

ビッグバンの法則

 宇宙は、高温高密度の状態から始まった。

 次第に大きく膨れ上がり、やがて爆発する。いわゆる、ビッグバン理論と呼ばれる宇宙進化の法則だ。その時刻は、今から138・2億年遡った先にあるらしい。アインシュタインが提唱した、一般相対性理論によって導き出された原理。時間と空間は、立場によって変わると彼は言う。人と人との関係性も、同じなのだろうか。

 ある晴れた初夏の夜道、司はトボトボと当て所もなく歩いていた。突然不意を突くように、グニャリと箱がつぶれる音がする。

 足をふらつかせる男が、正面からやってきた。澱んだ空気を放っている。肩がぶつかると、あっけなくその場で尻餅をついた。酒臭い息で「邪魔だ、ばかやろう」と言葉を発し、焦点の定まらない、胡乱うろんな目で司を見る。男のポケットから、黒々としたビー玉サイズの何かがポロリとこぼれ落ちる。

 その瞬間、司は妙に冷めた気持ちになって、彼を起き上がらせることもなく、その場を足早に通り過ぎた。

 気がつけば、先ほどまで雑踏の中にいたはずなのに、あたりは住宅に囲まれて静まり返っている。すでに葉桜となった木は不思議と貫禄があって、対照的に自分の存在の儚さを浮かび上がらせた。何か目印を見つけようとしたが、月が見えず街灯が明るすぎて星も見えない。

 時計は、深夜の二時を差していた。自分がいる場所はひどく朧げで、一様に色を無くし、喪失と悲しみに包まれている。

『私には、あなたしかいない。秘密を分かち合えて、通じ合える人なんて』

 ──司は、彼女の嘘を愛していた。自分の中にあるすべてのものを投げ打ってでも、ひとつになりたいと思っていた。幻想で見定めた夢は、いつか現実になると思って疑っていなかった。それなのに……。

*

 翌朝、モワリとしてじっとりした暑さによってパチンと目が覚める。

 ひどい二日酔いで、少しでも頭を動かすものなら鈍器を叩いたかのような痛みに襲われた。

 なぜあの男は、あんなものを持っていたのか。ひどく場違いなように思える。昨夜ぶつかった男の姿が、頭の中にこびりついている。

 司の部屋はいやに空虚で、家具らしい家具もない。もう新緑の季節を迎えたというのに、部屋は底冷えしていた。もうすぐ梅雨の季節がやってくる。引っ越しをしなければいけないのに、踏ん切りがつかなかった。契約の更新時期は一歩手前まで差し迫っている。

「あー、リモコンどこにやったかなぁ……」

 自分の言葉が、空中にポンと放り出されて、虚しく散っていく。以前は、きちんと返事が返ってきたはずなのに、一緒に過ごすはずだったパートナーの姿はどこにもなかった。いったいどこで間違えたのだろうと思ったが、いや待て、そもそも最初から間違っていたのではなかったのか、と思い直す。 

 きっかけは、きっと些細な出来事だったはずだ。

 一ヶ月前まで司は転職活動の真っ只中で、なかなか採用に結びつかない苛立ちと愚痴を愛美にぶつけた。彼女は司の言葉を聞いてしばらく神妙な顔をした後、押し黙った。

「あなたは、すべての悪しき出来事をあなたの環境のせいにして、逃げているだけよ」

 司は、カチンときた。でも実のところ、彼女の言葉は真実だったのだ。人とは異なる生き方を自分たちはしているのだ。僕も彼女も、世間の常識に対して嘘を塗って上書きし、特別な人間であることを通じて愛を確かめ合っている。

 数日後、愛美は事前告知もなしに司の元を去った。たった一行、「何かが私の中で爆発したみたい」と書き置いた奇妙な手紙ひとつ残して。

 思い描いていたありふれた未来が、握った拳の中から砂のようにサラサラと逃げていく。

愛美

「私たちは、砂糖とスパイスでできているのよ」

「砂糖とスパイス?」

「そう。甘いものを欲する存在でありながら、一方で刺激を求めている。現状に満足することなく生きなきゃダメなの。立ち止まった瞬間、自分を見失うわ」

 母は鏡越しで、じっと愛美の目を捉えて離さない。その場から逃げ出そうとしたけれど、うまく足が動かなかった。彼女は、虚に見えるその眼差しで、捉えた獲物を掴んで離さない。そのまま鏡の中に吸い込まれそうで、怖かった。

「自分が自分であるためにはどうすればいいのか。蜂蜜のようにトロける時間も悪くはないけど、それだけだといつか、自分の人生が平凡かつ退屈であることに気がつくのよ」

 物心ついた時には既に父の姿はなく、母一人子一人で生活をしていた。

 母は同じ話をよくしたが、幼い愛美には彼女の言葉を理解することができなかった。振り返ると、その時の彼女は少しお酒の香りが漂っていたように思う。

 そして彼女は、愛美の前から突然姿を消した。「すぐに戻ります」という置き手紙と共に、四角い小箱を残して。

*

 ある初夏の昼下がり、愛美は頭が痛いと言って会社を早退けした。

 気がつけば、自分が預かり知らぬ場所へと来ているような錯覚に襲われる。大切な記憶のかけらを、どこかへごっそり置いてきてしまったかのような。

 そのまま電車に飛び乗る。ゴトゴト揺られる乗り物の中で、モワリとした空気を耳からかけられた白い布から思いっきり吸い込んだ。勢い余って、ゴホゴホと咳が漏れる。車窓から流れる景色を見て、次第に先ほどまで自分がいた場所から遠い世界へと運ばれていく事実に、奇妙な既視感を覚える。もう同じ場所へ戻るつもりはなかった。

 オフィスの中でじっとしてパソコンを立ち上げ、パチパチとキーボードを打つ自分のことがひどく滑稽だと思った。気がつけば、毎日会社へ行く必要もなくなり、職場で働いている人たちも目視で数えられるほどにすっかり減っている。

 これまで誰かと話す日常が当たり前だったのに、当たり前ではなくなる。意識したことはなかったけれど、久しぶりに真正面から相手の顔を見て話すことが、これほど根気のいることだとは思わなかった。

 いつの間にか、成り行きで同棲していた同居人。私たちは、伝え合わずとも、不思議とお互いが考えていたことがピッタリと一致した。

 彼女はある日突如として職を失い、少しでもアパートの家賃の負担を減らすために、一緒に暮らさないかと提案してきた。

 司のことは好きだったし、やがて定職を見つけて落ち着いた頃には結婚という形になるのだろうかと思い、半ばなあなあな形で一緒に暮らし始めた。たとえ、未だ俗世間では希望が薄かったとしても。ひっそりと、嘘に連なる愛を育んでいた。

 もう少し、生きやすい世界になればいいのに。多様性なんて言葉は、耳障りの良い言葉で塗り固められた角砂糖みたいなものだと思うんだ。そんなふうに、司は言葉を口にした。

 でも、司はいつまで経っても新しい職が見つからなかった。その鬱憤を晴らしたかったのか、夜な夜な遊び回る毎日。もういい加減、うんざりだった。溜まりに溜まった感情が爆発し、最低限の荷物を持って家を飛び出す。甘い生活は唐突に終わり、刺激的にしては中途半端な幕切れだった。

 数日間ビジネスホテルに泊まって、会社に出社する日々を過ごした。突如として、海を見たいという衝動に駆られる。一度その考えが頭をもたげると、いてもたってもいられなくなる。不思議と、罪悪感はなかった。

*

 都心から一時間ほど揺られた先に、コパルトブルーに染められた水面が揺れている。電車の中でも、波の音がハッキリと聞こえてくるようだった。

 8両編成の車両から降り立つと、微かに潮の匂いがなだれ込んでくる。頭上にはクァークァーと鳴く海鳥が空中浮遊している。どこまでも穏やかな波際だった。目線を少しずらした先には、長い時間を掛けて本島と切り離された島が浮かんでいる。

 なんとはなしに、浜辺を歩く。愛美がこうしてサボっている間に、どこかで誰かがあくせく働いているのだ。何か彼らを突き動かす原動力そのままに。

 淡い波の飛沫は、たくさんのものを陸にもたらす。砂浜の上に散らばる貝殻や海藻、流木、自然界には存在していない人の営みの残滓、時には誰かの記憶を掘り起こすもの。全ては、やがて等しく朽ちていく存在だった。

 ズブズブと足元を掬われながらも、ゆったりと歩く。自分が今いる場所がどこなのかを改めて知ろうとする作業のように思われた。

 途中で何か埋まっているなと思ってよくよく目を凝らしてみると、ビニールの切れ端とともに花が出てきた。やけにシャンとしていると思ったら、プラスチックで造られた人工造花だった。

『あらあら、アナタずいぶん大きくなったのねぇ』

 目を細めて、愛美のことを見る母の姿がふと脳裏に浮かぶ。数十年の時を経て再会した彼女は、愛美の記憶よりもずっと小さな姿で、まるで別人のようだった。

『全部ね、全部嘘だったの』

 その先の言葉を、彼女は続けようとしなかった。スイッチが切れたかのように遠くをぼんやり眺めていた。もう記憶を止めることが難しくなっているみたいなんです、と施設の女性は言った。

 愛美はポケットから、小さな箱を取り出した。パッケージには、可愛らしい鳥のキャラクターが描かれている。嘴に見立てられた開け口から、コロンとお菓子が出てきた。ピーナッツが、チョコレートでコーティングされている。口の中に放り込み、歯で噛むとカリカリと小気味よい音がする。昔母が飛び出す時に、一緒に置いていったものだった。彼女はどうしてこのお菓子を残していったのだろうか。わからなかった。

 ただこのお菓子を食べるたびに、世の中の儚さを思うのだった。母がついた嘘と、秘密めいた言葉の数々を。

 彼女が重ねた言葉の中にも、一雫の愛があると信じたかっただけなのかもしれない。相思相愛とは、なぜこんなにも成就し難いのだろう。

 潮風の香りに混じって、湿気を帯びた風が吹いていた。もうすぐ、雨の降る季節がやってくる。

 私たちは、確かに正しい世界に生きていたんだよ。何も間違っていない。間違っているのはこの世の中だ。それは、この地球が誕生したことと同じくらい、自明のことなんだよ。

*

 ──さて、この後どうしようかな。

 たぶん、これは新しい惑星ができる前の下準備なのだ。 


故にわたしは真摯に愛を語る

皆さんが考える、愛についてのエピソードを募集中。「#愛について語ること 」というタグならびに下記記事のURLを載せていただくと、そのうちわたしの記事の中で紹介させていただきます。ご応募お待ちしています!


この記事が参加している募集

#私の作品紹介

97,646件

末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。