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#短編小説
【短編小説】札を投げる
電車を降りると、凍えるような冷気がまとわりつくように顔を覆ってくる。口から吐き出す白い息はまるで、さらされ続けることにより抗いようもなく、かつ否応なしにすり減らされていく温もりを奪われた精神の一部のようだ。
私はもうマスクをすることをやめていたが、しかしながら新型コロナウイルスやインフルエンザの流行の名残により、未だマスクをつける人々は比較的多く存在しているのも確かだった。
改札に向かってい
【掌編小説】たそがれ時の交差点で
山の稜線が淡くなりはじめたたそがれの時だった。
道の両側に植えられた銀杏の木は、太い幹の中から再びか細い枝を空に向けて伸ばし、小鳥の群のような小さくて黄緑色の葉を鈴なりに萌えいでだしていた。それらは冬の間に強靭な電気のこぎりの刃によって無惨にも大枝を切り取られ、まるで腕をもがれた彫像のようになっていた銀杏だった。
一台の黄色い自転車が目の前の車道をものすごい勢いで走り去っていった。その後を何
【短編小説】オリオンと月の弦
間違った電車に乗ってしまった。
車内がやけに空いている。なんだかおかしいなと気づいたときにはもう、扉は閉まったあとだった。
急行列車に乗るはずだったのに、何かに心がとらわれていたようで、その時ホームに入ってきた各駅停車の列車に考えなしに乗り込んでしまったのだ。
ーーー早く帰り着きたいときに限って・・・くそっ・・・
仕事がちょうど繁忙期に入り、この1週間は毎日帰りが遅くなっていたのだ。
【短編小説】『詩と暮らす』から始まる小説:Moon light
詩と暮らすというのは、まさにあの先輩のことだった。
大学時代、ぼくらは文芸部という、他の学生たちから見れば得体のしれないであろうサークルに属していた。
部室の中は、いつもタバコの煙とコーヒーの匂いの入り混じったような空気に満ちて、西陽が指す頃には妙に美しい靄のような光に支配されるその空間で、あるものはワープロをうち、あるものはパソコンで文書を編集し、あるものは部室にあるラクガキノートのよう
【短編小説】海の向こう
クモが出た。
夜、2階の部屋から扉を開けると、目の前の白い壁紙に大きめのクモがはりついていた。長くて細い10本の足を大きく広げ、一瞬だけその足のどれかをピクリと動かしたかのようにも見えたが、それからあとはじっと身動きをしなくなった。
隠れようもない白い背景の上で身を潜めるようにしながら、その複眼は静かにこちらの動向をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか別のところを必死に見つめながら
【短編小説】ホテル・カリフォルニア
あの男が残したのは車だけだった。
冬のまだ夜が明けきらぬ頃合い。
私は真っ赤な旧型のジープに乗り込み、車の量が少ない明け方の道路を走りつづける。しかもときにはブレーキをできるだけかけないようにしながら、尋常ではない速さで疾走するのだ。
家では、ベビーベッドの柵の中で赤ん坊のマヒロが眠っている。私は、薄暗い部屋でマヒロの寝顔をそっと見下ろす。赤ん坊はすやすやと寝息をたて、ときどきその小さな
【ショートストーリー】 空白 〜 ブランク 〜
そのブランクは、まるでエアポケットのように突然に私のもとに訪れた。
ちょっとした谷間に入り込んだ仕事のスキマを縫い、その日は午前中の休暇をとることにしていた。
毎夜、ささなければならない何種類もの目薬のひとつが、もうひと月ほど前から切れたままになっていた。
暗闇は足を忍ばせながらではあるが、しかし確実にやってくる。それがやってくるのを、無駄な抵抗と知りつつも少しずつでも先延ばしにしていか
【短編小説】#わが子 (2/2)
翌日、病院から出産の日取りが決まったと連絡があった。その夜も夫婦は部屋で寄り添いながら座り込んでいた。ストーブ上のやかんの蓋がカタカタと鳴っている。夫の隣では、結がこたつに入りながら静かに寝息を立てていた。
出産は明日になった。時間がかかる事があるので、明日の午前中から病院に来てほしいとのことだった。
二人は黙りこくったまま、じっと結の寝顔を眺めていた。結の傍らには、古びた人形があった。景子
【短編小説】#わが子 (1/2)
廊下に面したアパートの換気扇を通して肉を炒める匂いがもれ漂ってくる。摺りガラスの向こうに淡い影が揺れる。
浩介はドアの前に立ち、呼び鈴を三回鳴らした。そのとたん、部屋の中から女の子の声がした。
「パパ」
その声と同時にドタドタという足音が近づいてきて、そしてカギの開く音がした。
「ただいま、結」
ドアを開けるとそこに待ち受けていた娘を抱きかかえ、浩介は部屋の中に入っていった。
「ちょ
【短編小説】なつ 〜夕暮れ、一番星
夏の終わり、大阪の小さな町の細い路地、四人の少年たちが、細く長く伸びた影をゆっくりと引きずりながら帰ってきた。路地の角を曲がり、西側の稜線を夕日に朱く染めはじめた親しげな里山を背に坂道を下ってくる。ランニングシャツから出た細い腕は、どれも真っ黒に日焼けして、長く暑かった夏の日差し、そして楽しくもはかなかった夏休みの思い出を雄弁に物語っている。
路地の角から少し上がったところに、広い草むらがあ
【短編小説】未完の小説
下宿の大家は年老いた男だった。
古びたアパートの周りは、山や田んぼに囲まれ、夕方になると部屋の窓から山の向こうに日が沈んでいくのが見えた。秋には山は燃えるように色づき、冬には静かに雪が積もった。
夕暮れ時だった。
隣の部屋に住む夫婦が口論をする声が聞こえてくる。彼ら夫婦は、神秘的ななにかに深く心を囚われているようでーーあるいは考えようによっては何からも開放されているのかもしれないがーー
【短編小説】ファゴット奏者
スマートフォンの画面に集中していたせいで、知らず知らずのうちに今自分がどこにいるのかという認識を失ってしまっていた。
「おい、佐藤!」
突然の声に顔を上げると、上司がぼくの横にあぐらをかいてビール瓶を傾けようとしていた。ぼくは反射的にコップを差し出しビールを注いでもらい、それから仕方なく上司の持つコップにもビールを注ぎ返した。
「飲んでるかぁ?」
上司は言った。
「飲んでますよぉ」
ぼくは