見出し画像

2024年能登大地震に思う。  2011年東北大震災と児童精神科医と女の子  

 私は石川県の地方私立医科大学の医学生そして研修医として8年ちょっと石川県能登地方で生活していました。友人そして奥さんの家族がいる私のふるさと。
 2024年元日に起こった能登半島地震。今は遠く離れた地にいる私。こんなとき、手も足も出ないというとき。
「祈るしかないですね」と言うしかありません。結局、そうすることでしかこの無力感はいやされないのです。
 今回は東北大震災の思い出を語ります。

■東日本大震災からの震災疎開と不登校


 私は、2011年3月東北大震災の3週間後に児童精神科医研修を受けていた私は有志とともに現地に赴き、子どもの心診療をしました。避難所に行って衝撃的だったのは、地震の時のことを再現する子どもたちの姿です。また、地震のことで自分自身を責めてしまう子ども、思い出も家族も失ってしまった子どももいました。そこで、一時的ではありますが子どもたちの心のケアをしてきたのです。その後、当時勤務していた埼玉県三郷市の市民センターに戻ると、福島県から東北大震災で福島県から震災疎開をしてきた子がいました。
 彼女は中学校1年生。家族である兄と父。そして、友達と学校を失いました。埼玉県になじめず、女子のグループにも入れず、いじめに遭いました。これが現実です。彼女は悩み、自分が悪いんだと自身を責めていました。そして私の元に受診に来たのです。不登校となり、友だちもできず居場所はない状態。母は三郷市で仕事を見つけましたが、彼女は福島に帰りたい。福島の友達に会いたい。夜は寝れないし、食事もしたくないし、何もしたくないと訴えています。彼女は母親と病院に2週間おきに来院しましたが、いやいや来ていました。

■児童精神科研修医と彼女


 そんな彼女に私がしたことは、彼女が来院すると大げさに喜び、彼女に達成感を与えること。挨拶を交わすこと、これが今の彼女には必要だと思ったからです。彼女が安心して過ごせるように、抗不安薬と睡眠導入剤を処方しました。彼女は通い始めて半年ほどで震災について話し始めました。本当に辛いことであれば簡単には話せません。だから私は、彼女が自分から話すようになるのを、ずっと待っていたのです。
 彼女の寂しそうな顔が私の胸を締めつけます。彼女は私に話すうちに考えがまとまるようでした。そうやって繰り返しているうちに、少しずつ先のことも考えられるようになり、高校受験もしました。高校入学後も診療は続いたのですが、高校2年生の時、「もう大丈夫です」と彼女が言いました。福島に帰り、看護師になると未来の話をしてくれたのです。私は彼女を笑顔で送り出しました。医師の診察も必要なく巣立っていければ、ゴールです。

■5年後の再会


 それから5年後、私は埼玉県から東京都に勤務先を移しました。私が東京での勤務に明け暮れていると、そこへ彼女が今年、挨拶に来てくれました。看護師になったそうです。
「私……地震の後は死にたい気持ちしかなかったし、今でも悪夢で飛び起きることはあります。けど、病院に通い、医師や看護師さんたちが声をかけてくれるうちに、人のために働きたいと思ったんです。ここに来る前までは、なんとなく普通に大学に行って、会社員になると思っていたので、人生も変わりました」
 と笑顔で話してくれました。
 私も人の支えになれた。それは医師でなくともできるかもしれない。話を聞く。もちろん児童精神科医として、適切な介入であり、アプローチです。ただそれだけだが、医師でなければ彼女とは出会わなかったはずだし、児童精神科医として学んだからこそ、彼女を支えられたのだと考えると、つくづく医師であってよかったと思います。彼女が立ち直ってくれたことが、私を勇気づけていることにもつながっています。こうやって人は、支え合っていくのだと改めて感じたことでした。

いいなと思ったら応援しよう!