2021 読書この一年
※2021年12月31日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。
2021年の年間読了冊数は114冊でした。ことし読んだ本の中から、新刊を中心に印象的なものを振り返っていきます。
労働=働き方は本当に変わるのか、変えるのか
雇用や働き方の多様化が叫ばれる一方、制度や体制の変化は思うようにフレキシブルなものへとはなっていないような感覚があります。まずはそんな時代に読まれる価値のある雇用・労働関連3作をご紹介します。
濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か 正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書、9月発売)が光りました。新卒一括採用、終身雇用、転勤と異動を繰り返す会社員人生、男女のキャリア格差、ハラスメント、等々の日本の労働社会をめぐるモヤモヤを、雇用契約の形態である「ジョブ型」「メンバーシップ型」の対比の中で整理しています。
もしメンバーシップ型雇用からジョブ型雇用へ本気で社会が転換するならば、仕事単位での労働市場が形作られることになるのでどの会社に入っても同じ仕事である限り待遇はほぼ同じです。また、契約を結ぶ時点でその仕事に見合う能力はあると判断されるので、利益・成果を判断しにくい仕事でも頑張って査定を行おうとする日本の慣行はなくなっていくのでしょう(つまり「ジョブ型=成果主義」は成立しない)。
さらに異動と転勤を繰り返していくのとは違う働き方がもっと増えていくのだと思います。長らく周縁的な環境でしか職を得られなかった女性、高齢者、障害者、外国人の労働市場参加も豊かになっていくかもしれません。
しかし労働者側はもっと給料が欲しいのであれば自力でジョブ自体を変えていかなければならないので、職業訓練は社内OJTではなく社外に求めていく必要があります。おそらく大学を出ただけで社会人経験のない人が新卒で相応の職を得るのは難しくなるでしょう。職種ごとの待遇格差もよりはっきりしていくので、社会統合は難しくなるかもしれません。
本書の整理を踏まえたうえで、改めて日経新聞の記事などに立ち戻ると、先進例としてメディアに登場する日本企業の「ジョブ型」を標榜する制度は、結局のところこれまでの「メンバーシップ型」に無理やり成果主義を導入してきた日本的労働慣行の歴史を延長するものでしかないように見えます。
同じ岩波新書から出た木下武男『労働組合とは何か』(3月発売)は、ジョブ型、メンバーシップ型という言葉自体は使われていないものの、問題意識に共通性が見られます。正社員だけしか守らない、御用組合、的なイメージの強い日本的労働組合を批判し、立ち返るべき理想像として著者が提示する「世界標準のユニオニズム」は濱口の言うジョブ型雇用社会を前提とした社会です。
後半では日本での「世界標準のユニオニズム」の達成例として、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(関生支部)の取り組みが紹介されています。この紹介は、ジョブ型雇用社会は労働者側が運動によって作り上げるものだという著者の主張を補強するもので、示唆に富む例です。日本全体でこの動きが広がる可能性は絶望的と思いましたが、いま・こことは別の社会を知るという意味で刺激的な本です。
川上淳之『「副業」の研究 多様性がもたらす影響と可能性』(慶応義塾大学出版会、3月発売)は日本の副業の実態についてさまざまな調査データをもとに実証・分析した本です。日本で副業をしている人が、高いスキルを持つ専門職層と、一つの仕事では十分に収入を得られない層とに二分されていることがまず示されます。
政府などは副業を奨励する根拠として、異分野の経験をすることによるイノベーション増加を挙げていますが、本書の分析によれば副業によって本業のパフォーマンスを高めるのは、分析能力や思考力を要するタスクを必要とする職種に限られるとのこと。収入補填のための副業ではスキルは向上しないとのことで、厳しい現実が突き付けられた思いです。
政治=「一強」、その複雑性を丹念に追う
行政学の専門書からは小林悠太『分散化時代の政策調整 内閣府構想の展開と転回』(大阪大学出版会、11月発売)を挙げたいと思います。
省庁間の縦割り的な弊害を打破すべく、司令塔としての役割を期待された内閣府は、さまざまな諸課題を抱えて肥大化していき、結果的には2016年に「スリム化」を図るべく一部政策について調整機能を再び各省庁に戻す改革が行われました。
内閣府の肥大化を「首相権力の増大」で説明する向きが多い中、本書ではむしろ、省庁官僚制が引き受けられなかったニーズへの対応という官僚制由来の論理で説明しています。財政制約と政策の高度化のジレンマの中で、行政の基礎単位が「課」からひとつ下の「室」へと分散化していく中、従来の省庁制の限界と、課題自体の困難さに対応する内閣府の柔軟性が見て取れます。
つまり「ぜんぶ首相が決めていく」のような一強体制的イメージとは裏腹に、政策調整のプロセスの選択肢が増えていく過程といえます。本書ではさらに、従来の省庁制での調整でも、内閣府による調整でも対応困難な領域に対応するために官房長官─副長官─副長官補というラインの存在感が高まっていることも指摘されています。
本書はこうあるべきだという像を提示するたぐいの本ではありませんが、単純な「一強」を超えた豊かな理解を促す労作と思います。
新書では青木栄一『文部科学省 揺らぐ日本の教育と学術』(中公新書、3月発売)が、特に旧文部省系が政府中枢には弱く、学校・大学等には強いという「間接統治」的側面を持つがゆえに、文部科学省独自の「応援団」を形成できず政財界の横やりを防ぎきれないまま、大学の体力低下等の形でしわよせが現場へ向かっているという見立てを展開しています。「一強」体制において省庁がどのような振る舞いをするかは決して画一的ではなく、それまでの経緯や文脈の影響を受けていることに気付かされました。
善教将大『大阪の選択 なぜ都構想は再び否決されたのか』(有斐閣、11月発売)は、大阪ではもはや「維新一強」なのになぜ都構想は2回も否決されたのかという問いに、因果推論の手法で迫っています。
本書が明らかにした結論自体がまず説得的であることも評価すべきポイントですが、その結論を得るための実証がとても労力のかかるプロセスを経ていることに圧倒されます。なんとなくこういうことではないかという仮説をもっともらしくしていく手段は必ずしも統計的・計量的に分析することだけではないと思いますが、統計的にもやろうと思えばできるということ自体、感心させられます。
経済=経済史の可能性と、歴史の教訓の手強さと
小島庸平『サラ金の歴史 消費者金融と日本社会』(中公新書、2月発売)は今年の新書の中でも最もエキサイティングな一冊と言っていいと思います。
まず問いが面白い。通常は返済能力が劣るとみられがちな人になぜお金を貸すことが事業として成立するのか、という「言われてみれば…」な問いから出発することで引き込まれます。
しかしそういった言わば、金融上の技術の変遷をたどることによってジェンダーロールや、サラリーマン社会の通俗道徳が見えてくるという新鮮さが素晴らしかったです。経済史ってこんなこともできるんだ、と感動しました。
横山和輝『日本金融百年史』(ちくま新書、8月発売)は、1920年、当時は「瓦落」と呼ばれた戦後恐慌を始期とする100年間の日本金融史を、「ナラティブ」の影響という切り口でたどっています。ここでいうナラティブは「ナラティブは、人々の間でシェアされる何らかのビジョン、噂、あるいはスローガンのこと」です。
私にとっての収穫はまず、コーポレート・ガバナンスの変遷がまとめられている点でした。
しかし本書の面白さはやはり「ナラティブ」が「歴史の教訓」として用いられたことの評価の部分でしょう。
バブル崩壊後の金融当局者が公的資金注入をためらったことは、後に「後手後手」として厳しく批判されます。このとき当局者は、関東大震災後の金融恐慌時に、銀行の同時多発的な取り付け騒ぎに起こる前には公的資金注入への世論の理解が得られなかったものの、パニック後に世論は注入支持へ転換したことを「歴史の教訓」と理解していました。
しかし金融恐慌自体が政府の金融不安への対応先送りが原因であり、注入に際して高橋是清蔵相や井上準之助日銀総裁が積極的に世論の説得に動いていました。このことが知られるようになったのは1990年代以降のことだったといいます。バブル崩壊当時の「歴史の教訓」の認識がもし更新されていたらどうなっていただろう、と考えさせられます。
「歴史の教訓」を現在に生かすことの難しさと、それでいて「歴史の教訓」として語られるナラティブは実際の社会を動かしてしまう力を持つことを強調した本書の内容は、アベノミクスの起こりから挫折までを経験した現在、とてもリアリティーを持って迫ってくると思います。
歴史=フィクションとフェイクの間で
堤林剣、堤林恵『「オピニオン」の政治思想史』(岩波新書、4月発売)は、ある国家が死なないのは、国民がその国家を死なせたくない、死ぬとは思っていない、といった考え=「オピニオン」を持っているからだ、という(ある意味身も蓋もないが)単純で普遍的な原理を軸に、国家がどのように「オピニオン」を調達してきたかを議論しています。
王権神授説、天賦人権論といった政治思想史における重要なキーワードを、「オピニオン」調達の歴史として見ることは、今の体制もまた「オピニオン」に保たれているに過ぎないことに気付かされます。著者はそうした「オピニオン」に保たれた現在の不戦を基調とした世界秩序を、マジックが行われているカーテンにたとえた上で、「カーテンを破るな」と訴えます。そうした「オピニオン」を「フィクション」だと笑い軽視するのはたしかに容易であっても、このカーテンを破ってしまっては、再び織り上げられる保証はないのだ、と。
「オピニオン」を「フィクション」だと言ってカーテンを破ろうとするとき使われるのは「フェイク」です。現在の世界秩序は不合理で間違っていると言うためには、その秩序の成立経緯を不当なものとしなければならないからです。
そうした「フェイク」はどのように社会に漂い、社会は「フェイク」にどのように対抗すべきなのか。これを考えるヒントとなるのが武井彩佳『歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書、10月発売)でした。
本書では学術的な論争を経て歴史が見直されることと、歴史修正主義的な歴史の書き換えとは何が違うのかといった考察も含んでいますが、私が本書で一番おもしろいと思ったのは歴史が法廷でどう裁かれてきたかをめぐる欧米のいくつかの事例です。
1980年・カリフォルニアでのマーメルシュタイン裁判では、アウシュヴィッツでの虐殺を裁判所が「公知の事実」と認定したため、虐殺があったかどうかについての証明は必要なしとされました。
しかし1983年・カナダでのツンデル裁判ではホロコーストの有無は「公知の事実」とはされず、刑事裁判だったため検察がホロコーストがあったことを立証しなければならないという事態に陥ります(なおこの裁判では有罪となったものの、最終的には有罪の根拠となる刑法の「虚偽ニュースの流布」を禁じた刑法の規定自体が違憲と判断され、に無罪になる)。
2000年・ロンドンのアーヴィング裁判は、ホロコースト否定論者のアーヴィングが、彼を批判する本を出した出版社に対して名誉毀損で訴えた裁判で、出版社側がアーヴィングが資料を故意に捏造していて学術論争の必要条件を満たしていないことを立証する必要に迫られました。このとき、名うての歴史家がアーヴィングの論文をつぶさに検証していく作業を担い、この結果、出版社側が勝訴に至ります。
歴史を法廷で裁くことには、誰が何を立証するのかということが必ずセットで付いてきます。そしてこの過程で、歴史の正しさをあらためて積み上げていき、歴史修正主義者の語る「歴史」が誤りであることを指摘することに莫大な労力がかかることが示されます。人間の尊厳を踏みにじる言説でありながら、粗製乱造でき、それでいて学術的な積み上げのある言説と同じ土俵にすぐ乗ることができてしまい、対抗側に大きなエネルギーを使わせるという幾重もの暴力性が歴史修正主義にはあることが見えます。
ヨーロッパではホロコースト否定論やナチス賛美を法的に規制し、刑事罰を科すという方法が多くの国で取られています。「歴史の司法化」と呼ばれる現象ですが、人間の尊厳を守るためのこの手法は、表現の自由との関連の問題はもちろん、たとえばソ連社会主義体制による虐殺や、その他のジェノサイドまで処罰の対象とするかどうかが国によって分かれ、さらに「何を処罰対象とするか」をめぐる政治が国際対立を煽る方向へと向かうという新たな問題も起きています。
人間の尊厳を守るための「フィクション」が瀬戸際に立たされていながら、守り方も覚束ない現実を突きつけられます。
人文=人間にとって責任とはなにか
異端のカウンセラーが自らの理論をまとめた集大成的著作、信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書、3月発売)は、タイトルが示唆するように、人の内面に着目するという心理職のイメージを覆して、むしろ「関係」へのアプローチの重要性を説いています。
そもそも心理的な問題は、家族などとの「関係」を原因として起きています。依存症などの問題行動を加害─被害の抑圧構造に対する「レジスタンス」と捉え、抑圧構造の解消のために限定的に「加害」「被害」の枠組みを活用する。これが著者の理論でした。
「関係」が問題である以上心理職として、政治学や社会学、女性学と言った「関係」の力学をめぐるさまざまな見地を総動員してきた著者の実践は、この社会に幾重にも張り巡らされた責任回避の体制に対するアンチテーゼとなっています。
責任とは負わされるもの、押し付けられるもの、といったイメージを「堕落した責任」と批判し、責任とは本来どういうものなのかを問い直すのが國分功一郎、熊谷晋一郎『〈責任〉の生成 中動態と当事者研究』(新曜社、2020年11月発売)です。
國分が「責任(responsibility)」が「応答する(response)」に由来することに着目し、本来の責任は困難を前にして自ら引き受けるものではないかという議論を展開します。すると熊谷はある精神障害者の例として、反省を求められ続けながらできなかった人が、「免責」された上で自ら「引責」に至るという事例を紹介します。
責任を自ら引き受けることとはどういうことなのかを考えれば考えるほど、能動─受動モデルだけでは捉えきれない中動態的な責任のあり方が見えてくるという不思議さを、2人の対談を読みながら味わいました。
他=『大学は何処へ』『あの夏の正解』など
その他、印象に残った本を駆け足的にご紹介します。
吉見俊哉『大学は何処へ 未来の設計』(岩波新書、4月発売)は、弱体化している日本の大学が、どのように今の厳しい環境を打開していくべきかを探ります。著者はそもそも大学が最も重視すべき資源は時間であると指摘し、大学が定員規模やポスト、予算の獲得競争に明け暮れ、時間を重視してこなかったことを批判しつつ、学内組織のあり方、学期をめぐる議論、高大接続など、現実の諸課題について時間のマネジメントという視座から処方箋を提示しています。
木下浩一『テレビから学んだ時代 商業教育局のクイズ・洋画・ニュースショー』(世界思想社、10月発売)は、かつて「教育局」や「準教育局」として開局したテレビ朝日、毎日放送テレビ、読売テレビが、具体的にどのような教育番組を作り放送したのかを、さまざまな資料から掘り起こした研究です。行政による放送規制の枠組みや、ネットワークにおけるキー局・系列局との関係といったメタ的な側面によって、同じ(準)教育局であっても三者三様の番組展開が見えてきます。
早見和真『あの夏の正解』(新潮社、3月発売)は、コロナ禍の2020年、夏の甲子園中止という事態に直面した高校球児たちを追ったノンフィクション。書き手が元高校球児の作家ということもあり、彼らへの応援の姿勢が前面に出ていますが、高校野球に縁のなかった私にとってはむしろ球児社会の残酷な現実にインパクトを受けました。
星稜高校では「メンバー」と「メンバー外」という序列がはっきり分かれていて、「メンバー外」はどうあがいても甲子園出場の可能性はありません。甲子園中止より序列が意味を持たなくなり撹乱された時期を経験した部員たちが、自ら再びその序列を復活させていく過程に、青春のヒリヒリした側面を感じました。
文学では高瀬隼子『水たまりで息をする』(集英社、7月発売)が印象的です。夫が突然、風呂に入ることができなくなるという事態に直面した妻の戸惑いと葛藤の物語。狂気の夫と正気の妻というような分かりやすさに逃げず、〈正気の中にある狂気〉の象徴としての義母との対比も素晴らしい。『犬のかたちをしているもの』(集英社、2020年2月発売)でも思いましたが、著者は女性が持つ不快の感情を描くのがとてもうまいと思います。読んでいると、分かりやすく怒りや悲しみにぶつけられない、砂をガリガリ歯ですり潰すような不愉快さが立ち現れてきます。
以上、2021年の「読書この一年」でした。
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