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木下武男著『労働組合とは何か』

※2021年9月27日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 本書の主張は明快で、世界標準の「本来のユニオニズム」に立ち返れというものである。ではその「本来のユニオニズム」とは何か。

労働組合の機能は労働者同士の競争規制

 そもそも労働組合は労働条件の改善を目的とし、その機能とは労働者同士の競争を規制することにある。労働者がばらばらのままでは労働力の価格、つまり賃金を下げてでも職を得ようとしてしまうからだ。だから労働組合は強制加入であるべきだし、抜け駆けを許してしまっては経営側の賃金引き下げの思惑に乗ってしまうことになる。

 競争規制の具体的手段としては(1)共済のような相互扶助の仕組みを作って生活を安定させることで、傷病・遺族・老後等の不利な条件下で抜け駆けしてでも労働力を安売りしなくて済むようにする、(2)最低賃金や労働時間規制のように共通規則を法制化させる、(3)ばらばらの労働力商品を集合・組織化して労働組合が代表して集合取引(団体交渉)を行う、の三つだ。

 いまの日本の労働組合だってこの三つをやっているはずだ。では世界標準とは何が違うのかと言えば、そもそもの雇用慣行が違うのだ。日本では同じ職務であっても会社が違えば給料が違うのが常識だが、西洋では同じ職務なら会社を超えて同じくらいの給料となる。

 例えばドイツ小売業には「購入権限を有する筆頭販売員」という職務が組合によって定義され、労使交渉によって確認されている。日本でいうコンビニ店長に相当するとすれば、セブンーイレブンだろうがローソンだろうがファミリーマートだろうが、店長ならば「購入権限を有する筆頭販売員」として同じ賃金を得ることになるのだ。

職業別組合から産業別組合へ

 労働組合はもともと、中世ヨーロッパで生まれた職人の自治組合「ギルド」を源流に、職業別組合として発達した。19世紀の初期労働組合は、手工的熟練のある親方どうしで自分たちの職業の縄張りをつくってカルテルを組み、煉瓦積みの仕事なら煉瓦工組合の組合員でなければ従事できないようにした。こうした閉鎖性・排他性を背景に、熟練度は組合が証明し、その水準に即して賃金が設定され、組合が仕事を紹介するという制度を作り、労働供給の管理を行った。

 この時代の「クラフト生産」と呼ばれる方式では、生産の一切は親方にゆだねられており、材料の選択から製作、検査に至るまで具体的な生産方法は親方が決めていた。この過程で親方は徒弟期間中の労働者を訓練し、補助労働者を配下において監督・管理していた。

 つまり企業は労働者を直接雇用するのではなく、親方を通じて間接的に雇用していた。このクラフト生産を差配する親方によって組合は構成されるので、職業別組合は強い実力を持っていたのだ。組合が雇用保障の実際を担っていたわけである。

 ところが産業革命を経て20世紀初頭、テイラーによる科学的管理法により、熟練工の多能的な労働を単純作業に細分化し、各作業を定型化することによって一つ一つの仕事に熟練が不要となった。不熟練・半熟練者を企業が直接雇用することができるようになり、しかも少しの訓練で仕事をこなせるので、他の労働力と全面的に代替できる。ゆえに労働市場は広がり労働者間競争も激しくなる。

 そこで登場するのが労働市場を組織範囲とする労働組合である。これが産業別組合である。従来の「職種(トレード)」から「職務(ジョブ)」へと転換はされたが、企業横断的に同一職務には同一賃金という原則は職業別組合時代と変わっていない。職務範囲は組合間の対立と調整によって設定され、これに基づいて形成された職種別労働市場をもとに、企業は必要な職種に応じて労働力を調達する。

 職種から分解された職務間にはその難度に応じて序列が発生するが、この熟練度別序列も労使間で確認される。こうして「職務等級表」が決定された後、ようやく賃金交渉に入るというわけだ。

企業別組合の日本

 なぜ日本では本来のユニオニズムに即した産業別組合が発達しなかったのか。明治近代化以降の歩みをたどったのが第7章である。

 日本で産業資本主義が確立した日清・日露戦争時代は、まだ技能は手に依存していて徒弟制度も存在したが、あくまでも熟練は属人的なスキルでしかなく、社会的に組織された訓練制度の中で培われたものではない。熟練工とは、単にいろんな職場を移動して経験を積んできた「渡り職工」を意味し、流動的な労働市場を形成した。

 産業の発展に伴い、1920年代の日本企業は熟練工不足を痛感し企業内での技能養成制度を作るに至る。ここで重要なのは欧米のような技能の社会的標準が日本には存在しなかったことである。欧米では技能認定が組合や公的制度によって行われるので、技能はポータブルであり会社を横断した産業別組合の組織へとつながる。しかし日本の技能養成はあくまでも企業内的なものであり、流動的な労働市場を企業別に分断させる効果をもたらした。

 また企業内技能養成制度の成立とともに登場したのが年功賃金制である。企業内でせっかく技能を要請しても、高い賃金を求めて他社に移られては意味がないので、企業内にとどまることが得な制度を作らねばならない。そこで技能とは関係なく、勤続すれば昇給する年功的賃金が生まれる。

 企業内技能養成と年功賃金制は、労働者をその会社の「従業員」へと転換させた。戦後の1946年には労働組合の組織率が55.8%に達して労働運動が高まりを見せる中、産別会議の指導のもと賃上げ運動が高揚し、賃金は生計費を根拠とすべきという思想に基づく日本電気産業労働組合協議会(電産協)主導の賃金体系を経営側に認めさせることに成功した。

 しかし生活給である以上年功賃金とならざるを得ない電産型賃金は、ジョブに基づいた賃金体系とは全く性格を異にする。実際1947年の世界労連による勧告でも「かような方法は雇用主の意志のままに悪用され、差別待遇されやす」いと批判された。実際、経営側は1950年代以降、定期昇給に従業員の能力査定を反映させる仕組みを作った。実際にはユニオニズムに基づいた産業別組合形成の運動は日本にもあったようだが、年功賃金・企業内賃上げを前提とする総評的労働運動が趨勢となってしまう。

雇用を企業に依存しない例

 著者は「日本の雇用保障は、国家でもなく、労働組合でもなく、ひたすら企業によって支えられてきた。それが長く日本に根づいていた日本型雇用慣行だ」(p.210)と喝破する。ゆえに労働者は従業員として企業の意思に沿うように長時間労働に従事し、年功賃金制のもとで転職もままならなかった。

 しかし2000年代以降、非正規労働の増加や希望退職という名目でのリストラ敢行などが当たり前となり、企業は日本型雇用慣行を捨てた。もはや企業任せの雇用保障が望めないなか、著者はいまこそユニオニズムに基づいて労働組合による規制と国家の政策によって、転職しても不利にならない整備された労働市場を形成する必要性を訴える。

 そこではまず企業型組合とは異なる組合の在り方を模索しなければならない。著者はそれが、非常に困難な道であることを認めたうえで、しかし不可能ではないことを示すため日本における特徴的な組合運動を紹介する。それが、関西の生コンクリートを運ぶ労働者によって作られた産業別組合「関西地区生コン支部」(関生支部)の例だ。

 関生支部は早くも1980年代には年収600万円台と「年間休日104日の増日」を盛り込んだ協約を締結。協約は263社291工場の約7千人に適用され、組合の存在しない未組織の企業にも及ぶことになった。年間休日は現在125日になっており、年休を含めるとドイツの150日以上という水準に匹敵するものとなっている。 こうした緩やかで安定的な雇用システムの下では女性の進出も進み、あるシングルマザーは前職の倍以上である月収27万円を手にしている。

 さらに非正規雇用についても、日々雇用の労働者が必要な場合は組合が推薦する者を採用させることを協約化した。また、分会のある企業では組合推薦者を優先雇用したり、倒産・廃業で失業した組合員を、集団交渉に参加している企業の共同責任で雇用したりする制度も作られ、雇用保障も組合が担っている。

 こうした仕組みを実現させるためには、産業構造自体の転換も必要だ。ゼネコン─セメントメーカー─生コンという下請けの構造のなかで、生コン製造の中小企業はばらばらのままでは買いたたかれてしまう。これを防ぐために産別組合とタッグを組むようになった。中小企業同士で事業協同組合を組み、注文は協同組合が一括して受け、加盟企業に割り振る仕組みを取ったのだ。事業協同組合は法律によって独禁法のカルテル規制が適用されない。

非年功型労働者への期待

 著者は日本型雇用慣行の終焉によって、労働市場は現在2つの類型に分かれていると整理する。

 一つは従来の日本型雇用慣行がいまも存続し、企業別に労働市場が分断された「分断的労働市場」であり、ここに属するのは企業内育成を受け、経営側の強大な指揮命令に服する代わりに、成果主義か年功的かの別はあれども企業にいられる間は長期の雇用と昇給が保障される「年功型労働者」である。

 もう一つは「流動的労働市場」であり、ここに属するのは「非年功型労働者」である。誰でもできるような定型業務を繰り返し行う過酷な労働に従事し、昇給や昇進は望めず、長期的な雇用は難しいような労働を指す。著者は、正社員であっても使い捨てのような労働であればここに分類する。

 著者はこうした非年功型労働者が、新たなユニオニズムの創造の担い手になりうると期待する。

もちろん生きることで精いっぱいで、そう簡単にユニオンに結集しないだろう。だが彼らの状況を改善するのは企業でも政府でもない。その状況は個人の努力で突破できるほど甘いものではない。

260ページ

 具体的には(1)企業別組合の内部変革ではなく、外部に非年功型労働者による新たなユニオンを作る、(2)交渉相手の経営者団体に対応する「業種別」、共通規則設計の基準となる「職種別」という性格を持つ業種別職種別ユニオンによる共通規則の制定と集団取引を実現する、(3)業界の産業構造を改革する運動につなげる、などの方途を示し、最終的にゼネラル・ユニオンへと発展させるという構想である。

 これは現実的には困難に見える。世の中の大多数は、そんなことをするくらいなら、年功型労働者のコースに乗って企業の雇用保障に甘えたいはずだ。実際著者も、ユニオニズム創造の担い手は「一人一人の自覚した個人である」というが、言うは易し行うは難しだろう。

 現在ある企業外部のユニオンは所詮、ブラック企業で働き続けられなくなった人たちの駆け込み寺的な位置付けで、せいぜい未払い残業代の請求やハラスメントに対する抗議運動程度でしか存在感を示せていない。西洋的な実質的な雇用保障を担いうるような存在へと高めるための処方箋を本書が示せているとは言えない。

 とはいえ収穫の多い本ではある。労働組合成立の歴史的な背景がわかるだけでなく、関生支部の例のように日本でも西洋的な本来のユニオニズムを体現する組合が存在するということは、興味深い事実だ。「ジョブ型雇用」への注目が高まる中、そもそもジョブとは何かということを考える手掛かりにもなるだろう。

(2021年、岩波新書)=2021年3月31日読了


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