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信田さよ子『家族と国家は共謀する:サバイバルからレジスタンスへ』

※2021年4月5日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 カウンセラーは心理・精神を対象とするというイメージが当然のようにあるが、摂食障害、アルコール依存症のように心理・精神と身体性の区分けは明確でなく、DVや虐待のような暴力に発展すればもはや個人の葛藤のみの問題に帰着できない。だから著者のような「開業心理相談はもっと幅広く家族などの『関係』を対象」とするようになる。本書は「異端」を自任する著者が、社会科学的な見地も総動員しながら構築してきたカウンセリングの理論をまとめたものである。

 「関係」が対象となれば心理職としてであっても、対峙するアプローチは心理学や精神医学だけでなく、社会学、女性学、政治学的なものにまで広がる。実際に夫から妻への暴力、親から子への暴力は長らく「しつけ」や「愛情」として扱われ、暴力であるとみなされてこなかった。子どもから親への暴力は「家庭内暴力」としていち早く病理化されたにもかかわらず、である。

 現在でも、子どもへの虐待は、親を選んで生まれてきたわけではないという絶対的なイノセンス(免責性)が認められて絶対悪という認識になってきたが、妻への暴力は「夫婦対等」「自立した成人」という「選択」の責任を妻も背負わされ、あるいは自ら背負い、その被害者性を主張するのに複雑な論理が必要となっている。

 例えばPTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断名は、1980年にアメリカ精神医学会によってDSM-III(精神障害の診断と統計の手引き第3版)に加えられたが、これはベトナム戦争からの帰還兵に対する戦後補償の一環だった。このとき並行して、1970年代末にはアメリカの第二波フェミニズムと連動する形で、PTSDの家族内の暴力被害への適用を求める動きも起こった。国家と家族という両極における暴力を被害として認定する、政治学的色彩をその歴史に持つのがPTSDなのだという。しかし実際には、DSM-IIIにおいて、家族内の暴力被害はPTSDとして認められなかった。

 暴力を加害─被害という枠組みで認識する司法モデルは、治療者・支援者は中立的であるべきだという立場と葛藤を起こす。しかし、DSM-IIIの例が如実に表すように、「中立性」は結局マジョリティの権力におもねるだけで、さまざまな経験を言葉として定義できず埋もれさせてしまう危険性をはらむ。そもそも日本の戦後に起きたアルコール依存も、元をたどれば戦地で寒さや恐怖を、現地住民から取り上げた粗悪な酒で紛らわせた体験が影響している例も少なくないという。

 近年「レジリエンス」の語が注目を集める。精神障害からの復元力を意味し、困難や危険に直面しながらもうまく適応する過程や能力を指す。筆舌に尽くしがたい虐待などのトラウマを受けた人が今度は子へ暴力を加えてしまう場合もあれば、世代間連鎖を断ち切り温かい家庭を築ける場合もある。その違いへの注目する際に必要な概念が「レジリエンス」であり、それは「トラウマ」概念の強さに対する反作用として登場している。にもかかわらず、その相互作用の性質を無視して、産業界や自己啓発の文脈で努力奨励のための言葉として「レジリエンス」が使われ始めている。こうした個人化は、医療モデルと親和性が高いだろう。

 かといって司法モデルの二項対立性も万能ではない。DV概念の誕生を思い起こせば、司法モデルは被害者が当事者性を獲得するための強力な方法だった。しかし時に、「自粛警察」のように被害者性を他者と比較し、自らのイノセンスのみを強調することで他者をバッシングして自らの承認欲求を満たすような「被害者権力の発露」に転化してしまう。当事者性の獲得と権力の発露を区別する必要があると強調する。

 また「被害者」はイノセンスであり、無垢であり、ケアすべき存在であるというイメージからは、被害者の行動が不可解に見えてしまうこともある。つまりイノセンスさは無力性の強調につながってしまうからだ。しかし被害者はさまざまな行動を取る。フラッシュバックを避けるために酒や薬物、セックスに依存することは、イノセンスな被害者像と微妙な緊張を引き起こす。

 DVの被害を認めるところから出発しなければ問題は解決しない。しかし加害─被害の図式にすべてを委ねれば、「被害者は正しい」という一点にすべてを依拠せねばならなくなり、いきすぎれば「正義の暴走」につながる。その葛藤を踏まえて著者は「レジリエンスからレジスタンスへ」と説くのである。

 被害者は無力ではない。被害者が被害を認める、依存症のような問題行動を起こすことを、加害─被害の抑圧構造に対する「レジスタンス」(抵抗)として捉えるべきだと言う。レジスタンスは加害者が自らの権力を認め、謝罪し、権力関係を解消すれば必要なくなる。レジスタンスを駆動させるために「正義」を使う。そうした限定性のもとで「被害」を認め、レジスタンスを始め、加害者に責任を認めさせる。それが著者の理論なのだ。

 社会の中で生きる私たちは絶えず政治的であるという、ある意味で当然で、しかし見過ごされがちなことを、ここまで心理職としての理論に取り入れてきた著者の仕事の大きさに圧倒される。またその理論は、「正義」に殉じることを第一義的にしてきたのではなく、あくまでも目の前の問題を抱える人たちをどう支援していくかという、極めて現実的で実践的な課題に直面し、まさに「抵抗」してきたからこその説得力がある。

(角川新書、2021年)=2021年3月12日読了


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